エトロフ遙かなり


ほぼ10年前の'93年に放映されたNHK TVドラマ・ビデオである。各2時間の4巻だから大作だ。沢口靖子、永澤俊矢、阿部 寛、遠藤直人、秋野太作、竜雷太らが出演している。私が記憶している俳優名は主演の沢口以外は3-4名だから、消長の激しい世界だと改めて思う。
エトロフとは北方領土の択捉島である。話はソ連軍が島を占領し、島民が日本内地に強制送還されるシーンから始まる。引き揚げと云っても皆ここで生まれ育ったのだから追放だねと巡査が呟く。ソ連の領土政策の無慈悲を象徴するセリフである。ヒロイン・岡谷ゆきの生業は駅逓(えきてい)の女主人であった。駅逓とは替え馬を備えた宿舎で、公の機関のようだった。当時の択捉島は馬が交通の主たる手段で、遠方へは乗り継ぎ乗り継ぎ行く、まるで江戸時代の日本内地の情景だったらしい。何しろ長径200kmに及ぶ大きな島である。明治の画家・浅井忠が残したスケッチに、どこかの駅舎があったのを思い出す。あんなものが昭和でも残っていたとは新しい発見であった。ドラマはゆきの子・賢一が平成4年の里帰り墓参船に、亡母の遺言で亡父の形見のハーモニカをエトロフに埋めるために乗船するシーンで終わる。
登場主要人物は自分の意志とは無関係に社会からはみだし、アウトサイダーとして生きねばならぬ人たちで占められている。まずゆきはロシア船員との混血私生児、母は入水自殺している、その使用人・宣造は北千島アイヌ。日露の樺太千島交換条約で北千島のアイヌが色丹島に移住させられたのは史実である。彼は色丹から古里へ脱走する途中行き倒れ、駅逓の主人に拾われたことになっている。当時の社会通念では二人は生い立ちからして被差別者である。
スパイとして潜入する日系アメリカ人・斉藤賢一郎は高校を優秀な成績で出ながら、反日差別のアメリカ社会に受け入れられなかった犯罪者、協力者・金森は九州の炭坑から逃げ出した朝鮮出身労働者である。挿話に道路工事に従事するタコが出てくる。タコ部屋に集められ、棒頭のムチと鉄拳の下で、奴隷的に使役される労働者のことである。タコは全体で一つの背景を作っている。彼らも勿論アウトサイダーである。アウトサイダーとは言えないが、宣教師スレンセンは、南京大虐殺で中国人婚約者を奪われた恨みが、危険な仕事を引き受ける動機になっている。時代の数々の歪みを、くっきり際立たせた役作りはなかなか見事である。
択捉島の単冠(ヒトカップ)湾に日本連合艦隊が集結し、ハワイの真珠湾攻撃に向けて出撃した。アメリカ海軍情報部からはハワイの太平洋艦隊に警報が出されていたが、なぜか艦隊はそれを軽視した。日本海軍は乾坤一擲の奇襲に成功した。ここまでは史実である。物語では、スパイは単冠湾の留別村燈舞に潜入し、困難を克服して連合艦隊の集結と出航を打電、使命を果たす。手持ちの一番詳しい択捉島地図は(株)アトラス社の日本広域地図で、そこにはどうやらソ連占領前の姿が記載されている。飛行場があったことになっている天寧は載っているが、主舞台の燈舞と言う部落は見当たらない。ほかの地図も当たってみたが同様だった。ドラマに出た海図には燈舞が記載されている。あったのか無かったのか微妙なところがまた面白かった。
この大きな島の住民はたったの300人で、通信手段としては電話が3台あるだけというドラマ中の文書は本当らしかった。燈舞の住民はどう見ても30人を越えていなかった。冬無人の鯨解体缶詰工場が一つの舞台であるが、千島列島では北洋漁業と水産品加工工業が盛んであったから、あり得る設定である。事実の大枠の中に虚構を取り混ぜているからか、なかなか迫力のある物語になっている。ロケは根室や別海で行われた。霧の中に浮かぶ航空母艦のシルエットなど、なかなか映像としても見せてくれる。どんな特撮であったのか。
スパイと知らずに恋慕の情に身を焦がすゆきだったが、巧みな身の上話と不審な行動に疑いを持ち始める。深夜、賢一郎をつけ、缶詰工場の発電機で打電する現場を押さえ、ピストルを向ける。道具に使われただけかと「もう何も信じられない」というゆきに、懸命にまことの愛だと説得する賢一郎。その後からスパイ行動を突き止めた憲兵が迫る。第4巻終わり近くの、物語の総決算とも云うべきクライマックスの場面である。賢一郎を演じた永澤俊矢のドスが利いた声、ゆきを演じた沢口靖子の投げつけるような黄色い声が見事に絡み合う。賢一郎がスパイに仕立てられるまでの経緯はスペイン、ニューヨーク、サンフランシスコ、サンディエゴ、ハワイと世界を股に描かれる。スペインでは内戦の義勇軍兵士であり、ニューヨークとサンフランシスコでは金目当ての殺し屋、サンディエゴでは海軍情報部の囚われ人、ハワイでは訓練中のスパイである。ハワイの訓練では仮想日本側スパイに先頃逝った河原崎長一郎が出てくる。洞口依子が、全く若々しい姿で岩手一関から横浜、ハワイと流れてきた水兵相手の売春婦となって顔を出す。陸軍の南京における暴虐ぶりも描かれていて、NHKといえども滅多に作らないスケールの大きいドラマである。
ドラマの中の言葉は標準語だが、さてエトロフではどうであったか。昭和29年に旅行したときの感覚では、北海道は東北に比べるとずっと標準語に近かった。だからエトロフもそうであったのだろう。住民や軍人に対する考証は行き届いている。19-24歳を演じるヒロインは身なりを整えたときでも地味で、当時の着物感覚をよく出している。女が一番美しく見えるのは喪服姿であると云われたものだった。素材を輝かせるには服装は地味な方がいいという意味である。ばあさん演歌歌手がド派手な和装で出てくる今日とは美意識も随分違っていた。

('03/11/17)