浮雲


平林たい子の「林芙美子」には浮雲を代表作の一つとして上げてあった。新刊書店ではもうこの本にはお目にかかれないが、幸い昔買った新潮文庫本が書棚にほこりを被っていたので、取りだして読み始めた。細かい字でまことに読み辛い。物語は太平洋戦争敗戦後の引揚船で女主人公・幸田ゆき子が敦賀に降り立つところから始まる。双葉百合子の演歌「岸壁の母」の背景が分かる年層はたちまちに引き込まれる出だしである。すぐになぜ引き揚げ船に乗らなければならなかったかの説明が来る。彼女は戦中軍属に志願して、ヴェトナムに派遣されていたのである。
「林芙美子」には彼女が従軍記者として戦地取材に2回ほど出掛けたことが記されている。どちらも中国戦線でヴェトナムはなかった。旅行好きで平和時には日本全国・欧米各地を歩いているが、やっぱりヴェトナムはなかったように思う。私は日本語のローマ字表記問題に関連して、昔漢字今ローマ字のヴェトナム文化に関心を持ち続けている。ヴェトナムは清朝の保護下にあったが、清仏戦争で清が敗れ、フランスの植民地となった。宗主国が代わると表記文字も代わった。だから芙美子がヴェトナムに行ったか行かなかったかとは別に、作家のヴェトナムにおけるゆき子の描写にはえらく興味を覚えた。
ハイフォンは海防、ハノイは河内と漢字表記されている。中国が宗主国であった名残はそう簡単には消えなかったらしい。共に北ヴェトナムで中国に近い場所である。この両都市以外は仮名表示になっている。ゆき子は病院船で海防に着き、古都ユエを経由してサイゴンに近い、と言っても250kmは離れた、高原のダラットに赴任する。手持ちの平凡社・世界大百科事典・世界地図にはユエもダラットもない。これは仮名表記にいつも付きまとう問題で、ユエはフエ、ダラットはダラトとなっている。検索してもユエなぞ無いから大変である。いつも思うのだが、漢字の一部を国字に採用しているのだから、ローマ字も国字にすべきである。ユエは現地表示がYue、ダラットはDa Latなのだ。サイゴンは勿論ホー・チ・ミンである。またこの地方を仏印と記している。仏領印度支那の省略である。歴史的表示として改めて懐かしく思う。
ゆき子はハイフォンからサイゴンまで陸路を行った。海は病院船と言えどもアメリカ潜水艦の魚雷攻撃にあっているから危険だったのであろう。その御蔭で当時の現地の生活を垣間見ることが出来た。フランス人が結構残っている。日本軍は太平洋戦争前に仏印に無血進駐した。フランス人は宗主国人としての特権は失ったが、個人の生活にことに生命に危険を感じるほどの変化を受けなかったのであろう。ゆき子は、広いアスファルト舗装の植民道路をシトロエンが走る風景や、宿泊ホテルの構造、小パリと言われるサイゴンの佇まいに、対照的に貧しい故国を思い出す。職場のフランス人タイピストが英語、仏語、安南語をこなし、疲れるとピアノを弾く姿に彼女の文化的な豊かさを感じる。今ヴェトナムに個人旅行でもするものならば、物売りに取り囲まれ、ストリート・チルドレンにせがまれ、観光どころではないという紀行文を読んだことがあるが、当時の仏印は清潔で民心が納まっていたことが想像できる。
占領地は男ばかりの世界である。そこに妙齢の女が一人派遣されてきた。男のセクハラにゆき子は敏感に反応する。同じ人種の男女にだけ通じ合う、言葉や生活の馴れ馴れしさが、男の心に響く。散歩に出れば、男は日本の女と歩く事に、何となく四囲に気を兼ねていた。内地の習慣が、遠い地に来ていても、日本人根性を怯えさせる。フランス人のようにのびのびとこの土地を消化しきれないもどかしさを感じている。なるほどと思わせる表現である。男達は農林省技官で、ヴェトナムの植生を戦争に役立てようと研究している。現地の木炭自動車の話が出てくる。日本では実際に木炭自動車が戦中は走っていた。懐かしい話である。なにか的を射ていない滑稽さを、私も当時子供心に感じていたのを思い出す。
敦賀からゆき子は故郷の静岡を素通りし、東京に出る。仏印の男・富岡を訪ねる電車で見る窓外の景色は大半が焼け野原で、何もかも以前の姿は崩れ果ててしまっているような気がしたとある。露天市が路上にあふれていた。荒涼とした焼け跡の瓦礫には、汚い子供達がかたまって煙草を吸っていた。戦災孤児であろう。ゆき子は、旧弊で煩瑣なものは、みんなぶちこわされて、一種の革命のあとのような、爽涼な気が孤独を慰めてくれているように感じる。当時を生きた我々年層にはよく分かる感傷である。ゆき子は、他人が居座る義弟の家をさしあたりの根城に、煮え切らぬ富岡の身勝手に憤りつつも仏印時代のよりを戻す。
富岡には家庭がある。技官を辞めて材木ブローカーをやっているが、資金繰りに困窮している。宛もなく寄りかかる柱もない不安定な立場である。彼は自分の無力さを悟るのだった。誰も信用出来るような顔でいて、ひそひそ語りあいながら、その実、胸の中には自分一人で胸算用している。だが、世相がぐるぐる廻ってゆく方が刺激があった。私の父もあの頃はこんな心境だったろうと思い起こす。見事な描写である。しかしゆき子は、仏印ではあんなにのびのびとしていた男が、日本へ戻ってから急に萎縮して、家や家族に気兼ねしている弱さが気に入らない。二人は切れようと何度も思いながら、仏印の夢から立ち去れない。富岡は自殺の道連れにしようとまで思うが、女の生に対する逞しさにはさからえない。このただれた、矛盾に満ちた、始末の仕様のない関係と裏の心理が巧みに描かれてゆく。筆者は、人間というものの哀しさが、「浮雲」のようにたよりなく感じられると書いた。
戦後10年は経った。ふゆ子はときには体を売るような境遇から、ようやく新興宗教教団の会計事務の仕事にありつく。富岡は材木で失敗し無一文になるが、仏印の記憶をネタに文筆活動をしてやっと食っている。その彼に屋久島の営林署のポストを昔の仲間が世話してくれる。敗戦の痛手から社会が安定を取り戻し始めた時勢をうまく表現している。ただ犠牲も大きかった。ふゆ子は世話をした義弟の妾に近い立場にならざるを得なかったし、富岡は病身の妻を棄置に等しいやり方で死なせてしまう。満たされぬ心の整理をと仕掛けたのはふゆ子であった。教団の金庫から60万円を失敬し、富岡と屋久島へ連れ立って逃げる。1万円あれば男が1ヶ月なんとか食っていけた時代だから、60万円は今の1000-1500万円であろう。ふゆ子は肺病を抱えていた。電気もつかない雨の屋久島で吐血し、誰にも看取られないまま官舎の畳をのたうち回って死ぬ。この小説には、死の瞬間の苦しみについて時折触れた箇所があるが、それが終末の伏線になっている。
「林芙美子の昭和」という本が出ているそうである。私はあまり評論家の本が好きではない。彼らの評論を読むぐらいなら、原本を少しでも多く読んだ方がましだと思っている。でも偶然であろうが、平林たい子(この人は小説家で直に接した芙美子を描いている)に続いてまた芙美子論が出ると云うことは、彼女の昭和文壇の旗頭としての地位が歴史的に確立してきたという証であろう。私には、戦中より戦後の混乱期を描く浮雲は、胸に重く残る作品であった。

('03/12/06)