白石を歩く

- 新幹線を使えば、わが家から日帰りで4時間弱の白石観光が可能である。幕府の一国一城令の下で、伊達藩は唯一の例外として2城を許されていた。その2城目が白石城である。同じ外様でも関ヶ原の合戦で親徳川であった伊達藩が、西側に荷担した上杉藩に爾後も睨みを利かせれるように幕府が許可したのだろう。JR東日本「大人の休日」旅行の第1日にここを選んだ主な理由はこの歴史から来る興味であった。
- 新幹線の白石蔵王駅を降り立った乗客は数人もいなかった。人影とは対照的に立派な駅である。その中に「温麺(うーめん)の館」という市の観光展示室がある。この地方独特の麺類・温麺の伝統的製法を、等身大人形を使って展示している。今でもその製法を、機械化はしたものの、守っているらしい。捏ねてだんだん細く伸ばし最後は素麺の細さになる。製法上素麺と著しく違うのは最後に9cmほどに切断するところだ。素麺ではそれが1尺ほどの筈である。小麦粉を塩水で捏ねて造り、油を使わぬ特徴があると説明には書いてあった。手延べ素麺では手で伸ばすときに油を使うのだそうだ。温麺の館の半分はこけしの展示であった。毎年全日本こけしコンクールが当地で開かれ、その入賞作品を展示する。なかなか見応えのある作品が、合計したら何千体はあろうか、並んでいるのは壮観である。白石市に弥治郎こけし村がある。少し離れているので今回は立ち寄れないが、こけしに弥治郎系という流れがあるらしく、伝統の玩具らしかった。
- パラパラと時雨が来ておやと思ったらすぐに止んだ。歩いて町中に向かう。車も人もあまり見当たらない静かな町である。インターネットで調べて置いた清治庵を目指す。自前の製造工場を奥に持っている。食堂は副業のようだった。古くからある食べ方でと注文したら、「けんちんううめん」を奨めた。味噌仕立ての麺で、人参、ゴボウ、ゼンマイ、椎茸等々と実沢山である。油のかおりと舌を刺す辛味が少々と言った味付けだ。「うう」になぜ温と言う漢字を当てるのかと聞いたがあまり明解でなかった。角川漢和中辞典には温にウンという字音があると記されてはいる。そう言えば温州をウンシュウとも云った。でも近頃は温州ミカンなんて聞いたことがないから、やはり死音になりかかっているには違いない。
- 道を訊ねる。皆親切だ。車椅子や自転車の人に道を譲ると丁寧に礼を言った。昔の日本にタイムスリップした感覚になる。蔵王酒造の醸造所の横を水量豊かな小川が流れている。これが城の外堀に相当するとあとで知った。内堀に相当する小川はもっと細くてとても堀とは云えない。再建天守閣に昇る道は市役所や公立病院の建つ場所を通り抜ける。薄汚れているのと実用一点張りの建物である。城は平山城で小高うなってはいるものの目に映えない。病院は主要部を郊外に移転さすそうだ。天守の各階に案内人がいて色々教えてくれた。最上階の第三層の案内人は訛がひどくてはっきり聞き取れなかった。その方が観光に来た気分が出ていいかも知れない。
- ミュージアムで白石の歴史を勉強する。正式には白石城歴史探訪ミュージアムと称する。1Fがみやげや、3Fが30分の「鬼小十郎帰るに及ばず」という立体ハイビジョン劇映画館、2Fが目的の展示室になっている鉄筋コンクリート造りのあまりお城の景観にマッチしない建物である。鬼小十郎とは大阪の陣で活躍した二代片倉小十郎重長のことである。城主は徳川時代を通して片岡家であった。伊達家の一門ではなく一族であるが、家老も勤めた有力家臣で禄高1.8万石という。この禄高なら精一杯の縄張りだと思った。
- 城下絵図に町の字(あざ)名が出ている。お城に上がるまでに何となく眺めてきた現代の町名にそのまま生かされているのが嬉しかった。町の区画も殆ど変わっていないようだ。城下町の模型がある。お城は瓦葺きだが、個人住宅は全部茅葺きである。武家屋敷が350軒、商家が370軒と書かれていたように記憶する。増川宏一:「伊予小松藩会所日記」、集英社新書、'01によると1万石の小松藩は江戸中期で家臣70人でほかに足軽小者が計100人という所帯であった。1軒に1人という計算にすると片倉家は家臣350人だからちょっと小松藩とはバランスしない。小松藩は小さくても大名だから、参勤交代があり財政は苦しかったろう。仙台藩は対米沢藩防御ラインとして人数を重点配備していたのかも知れない。その相違であろうか。戊辰戦役に敗れて片倉家中は大挙北海道移住せねばならなかった。その移住人員が船名と共に記載されていた。船によっては軒数も入っている。合計したら880人ほどだったか。片倉家中全員が全家族を引き連れて移住したはずはないから、家中の人数350人という推測は正しいのではないかと思う。町屋は小松藩では207軒という記録がある。白石の370軒はだいたい石高に比例した数字だ。
- 展示室に、伊達の殿様が江戸からの戻り道で白石城に立ち寄った際に、片倉家が饗応したときのお膳が再現されていた。品数は多いが、調理法は現代感覚ではいたって単純だから、特別ご馳走には見えない。動物食は魚が何種類かで、哺乳類、鳥類は一切無かった。貝類は記憶にない。一つ、温麺らしきものが注目を引いた。ゆでた温麺の横につゆが置いてある。つけめんである。私は先述の通り駅近くでけんちんううめんを食ったが、どうも本式はつけめんだったらしい。(ミュージアム展示関係で、記憶が怪しい部分については、家に戻ってから白石城管理事務所に架電して確かめた。お相手をして下さった方に感謝する。)
- お城を出、水量豊かに流れる外堀川の脇の旧小関家武家屋敷の見学にゆく。15石取りで役向きは料理番という。随分小禄だ。しかし敷地は300坪と当世なら会社重役級以上である。ミュージアムの城域模型でも武家屋敷は何処も広々と敷地を取っていた。ある程度は食糧自給に庭を使う意味があったのだろう。家屋はやっぱり茅葺きである。流石に建坪30坪と広くない。これで2LDKになっている。Kにあたる土間がやけに広い。片倉家中は平均して1家族4人ちょっとであったから、部屋数を除けば現在感覚では充分の広さである。建物は江戸中期建造で、一見農家と同じような構造で、今まで見たあちこちの武家屋敷と違う。あちこちの武家屋敷とは幕末期の建物だった。だからこの建物は武家屋敷の形式が確立する前の遷移期の様式を示しているという。
- いい旅だった。
('03/10/14)