科野の里・歴史公園

- 長野県立歴史館は常設展だけだったが結局2時間ほども見学に費やした。入口の縄文時代の縦穴住居跡は宮城県立博物館のそれを少し小型にした感じである。すでに飼い慣らされるようになった犬の吠え声がするのも同じだった。古代土器類、武人人形なども特に目新しいわけではない。軍馬の模型は目を惹いた。現代の競走馬に比べればかなり小型で今ならいわゆる駄馬である。木曽馬を参考にしているとのことだった。馬の模型は次の善光寺門前の模型にも繋いであったが、それも小型で、昔歴博で見た武田氏の城塞から発掘したという軍馬の遺骨がやっぱり小さかったのと一致していた。
- 縄文期の日本の人口が26万人としてあった。その時代の長野県の人口推計は2万あまりとなっていた。質問してみると、住居跡の数に一戸あたりの人口を例えば5名として算出したとか。一般に日本は土地が酸性だから遺骨がまれにしか残らない。だから住居跡なのだが、その数が発掘機会が増えると共にじわじわと増加するのだそうだ。いつかは日本全人口と共に書き直さねばならぬのであろう。当時は東日本に人口が偏在していたというから、あるいは2万余は正しいのかも知れない。なぜか次の弥生時代の長野県人口の推算は書いてなかった。日本全人口は60万としてあった。26万とか60万とかは、前者は縄文中期人口として後者は弥生時代人口として鬼頭宏:「人口から読む日本の歴史」に記載されている数字と同じである。その他で印象に残った古代の展示は、長野に条里制の証拠がしっかり残っているという話だった。
- 一遍聖絵を忠実に再現したという鎌倉時代の善光寺門前の様子は、この歴史館の圧巻である。先に引用した馬は武士が善光寺前で下馬して繋いだ馬である。雨露が凌げるだけの貧しいあばら屋が定期市の店で、ちょっとましな一番奥の店が仏師「妙海」の家という。そこには作りかけの木彫り仏像と工具が並んでいる。妙海の作品は県内に今も伝わる実在した人物だそうだ。寺庵という僧坊の床下に茣蓙や食器が置かれている。ルンペン乞食の仮の宿らしい。それにしても小さいお堂だ。今ならどの村にもありそうな寺である。
- 次の部屋は江戸時代前期の中農の家で、移転まで実際に使われていたという。江戸後期頃以降の農家なら公園のあちこちに保存されている。建造年代は正確には記憶していないが、千葉だけでも太田山公園、房総風土記の丘、房総の村、宗吾旧宅、清水公園など数ヶ所で見た。探せばもっとあるだろう。でももっと古い農家ははじめてだと思う。先ず入口の肥桶に驚かされる。一桶17kgという。
- 焦げ茶色のまだ原形を保った人糞が浮いている茶褐色の下肥がまことに生々しい。この頃から人糞を肥料に使いだしたのだという。私の子供時代には本当に肥料に使っていたから、その臭気が脳味噌の記憶からしみ出てくる。たれたばかりのアツアツの人糞とは又ちょっと違った匂いなのだ。天秤棒に2桶34kgを肩に担いで調子を取りながらあぜ道を歩く作業は今の子なら何回やれるだろう。家は結構大きいが中は全く貧しい。畳は居間になく地べたに茣蓙が敷いてあるだけだ。木綿はなく衣料は専ら麻が使われた。蒲団の中身はわらである。いろりの鍋にはひえの雑炊が煮えている。これが主食なんだそうだ。
最後の近現代展示室は蚕糸王国・岡谷の話に纏めた。
- 歴史館は科野(しなの)の里・歴史公園の一角にある。歴史公園である理由は森将軍塚を囲む一帯だと言うことだ。もうかなり疲れてしまって古墳のある頂上まで登る元気がなかったので、麓の森将軍塚古墳館の見学に留めた。将軍塚は全長100mの前方後円墳で土壁面を石で覆い埴輪を建てた豪壮な作りである。現地では見れない竪穴式石室の実寸大模型が古墳館のメイン展示品である。古墳館の近くにある科野のムラは古墳時代のムラを復元したものという。多くの出土品が展示されていた。残念なことにこれだけ立派なお墓なのに文字資料は皆無であったようで、墓の主は科野の国造であるとだけしか云えないようだった。石室は2Fから見下ろす展示になっているが、1F出口附近に同じレベルからも石室内を眺められるようにしてある。その位置は実際に存在する盗掘口だそうだ。古墳には盗掘がつきものだと改めて感じ入った。
('03/09/19)