蚕糸王国・岡谷

- 岡谷駅で降りて岡谷蚕糸博物館へ歩く。少し坂道だったせいか、短い距離にしては大汗をかいた。ユニークな専門博物館である。本物の蚕を見るのは何十年ぶりであったか。多分戦中の集団疎開以来であるから五十数年は経っている。昔の繰糸法から最新の自動機まで展示してある。蚕繭の細い糸を数本重ねて糸に紡ぐ。繭の糸は無限でないから糸の最後になると次の繭から糸を繋がねばならぬ。接緒と言うのだそうだ。そこを自動化してある。糸の摩擦力の変化を検知して糸を繋ぐ腕が降りてくるそうだ。
- 繰糸の原理は大昔から変わっていない。生きている蛹を熱で殺し、お湯につけて繭をほぐす。蚕の吐く糸は複合構造になっていて、繊維(フィブロイン)を中心に周りを糊成分(セリシン?)で包んでいる。繊維断面のダブル三角形が、えも云わぬ絹の風合いを造ると合成繊維の講義で云った憶えがある。この接着剤を適当に溶かし出すのにお湯を使う。幾分残った糊が接緒に役立つらしい。なお繭の糸は蚕の吐きだし始めと終わりでは細いのだそうだ。意外に自然は複雑である。糸にならなかったくず繭は真綿になり、それから紡いだ紬糸で結城紬などの紬織物が生まれる。西陣織などは繭から取った絹糸による絹織物である。そこの差をあまり私はしっかり知らなかった。
- 次の日の長野県立歴史館常設展最後の部屋は近代蚕糸工業の展示である。大竹しのぶが主演した「ああ野麦峠」という映画を憶えている人はもう少なかろう。私はもう10数年も昔になろうか、木祖村の薮原から高山へ野麦峠を車で越えたことがある。小学校を出たばかりの女工の卵たちはこの道を歩いて岡谷に行き、7-8年の年季を終えるとやはりこの道を戻った。野麦峠は1700m近い標高である。小さい子供には苦しく危険な山道であったろう。「ああ野麦峠」では病に倒れたみねが野麦峠で「飛騨が見える」と云って事切れる。ノンフィクションで実話だそうだ。寄宿舎は鉄格子を付けて逃亡を防止した。映画では、火事の時に鉄格子に阻まれて逃げ場を失い焼死する女工を写していた。工女の死亡率は高かった。大部分は結核だった。女工達の1日のスケジュールが展示室に出ていた。寝る時間と食事の、それも15分程度の短い時間以外は労働で、1日13-4時間労働だったようだ。夕食後も寝るまで働かせたようだった。
- 女工哀史はなぜか博物館や歴史館では語られない。岡谷の蚕糸博物館は技術の進化だけに特化した展示であったし、この歴史館も女工については労働時間の円グラフだけである。以前見た須坂市立博物館にも蚕糸工業の展示が少しあったと記憶するが、そこには、女工哀史などと言うが、女工達には色々楽しみがあり、そんなに暗い生活ではなかったという意味の解説がしてあったように思う。web「女工哀史 ああ野麦峠」を見ると、農山村の生活は工場以上に激しい労働であったとあるし、年俸10円から始まる給金は、熟練すると100円になったと云うから、そこそこの現金収入として貴重であったろう。と言って女工楽史ではない。
- おしんの姉たちもそうであったが、家長に隷属し、家のために献身することを美徳とした時代に戻って、本人が哀史と感じたか否かであろう。ただ敗残の身つまり不治の病に罹った人たちは、諦めもあったろうが、生涯を哀史と感じたに違いない。そう思うと、旧林家住宅のような製糸工業で産を成した人たちの家を、立派立派と褒めそやす気にもなれないのである。(旧林家住宅は訪れたが、生憎とお休みで外観だけを拝見して戻った。)戦後私が中学生の時代に近江絹糸事件が起こった。女工の労働運動を会社側が親を使って半暴力的に押さえ込んだ事件である。伝統的に製糸工業の労働管理は前近代的であったとは云えよう。
('03/09/19)