科学の社会史(下)

- 広重徹:「科学の社会史(下)−経済成長と科学−」は主に戦中から'73年までを扱う。著者は'75年に46歳の若さで病死した。彼の史観のおおよそは上巻で想像が付いたので、その視点に立てば、著者の死後から今日までのほぼ30年間の日本の科学史はどう総括されるかはとても興味深い主題である。それを巻末の解説において吉岡斉九大教授が批判も加えながら論じている。順序は逆だが、先ずそこから眺めてみよう。
- 日本はいまや科学技術研究費大国として不動の地位を確立した。'00年で16兆円あまりを使っている。アメリカは29兆円に近いから、この国には及ばないが、第3位のドイツの5兆円弱を遙かに引き離している。EU加盟国の全研究費とほぼ匹敵する金額を一国で消費している。科学技術研究費の対GDP比は3.18%で飛び抜けて高い。政府負担割合は2割を超し10年間に50%も増加し、尚増加傾向にある。欧米では冷戦終了後の軍事研究費削減、緊縮財政政策がきいて漸減傾向にある。膨大な軍研究予算が後退して、世界の国家研究支援体制は吉岡氏の云う「ジャパニーズモデル」に近づきつつある。政府の存在感はますます強烈になって行く。政府研究資金主管官庁は文部省、科技庁、通産省であったが、いまや文部科学省に全体の2/3が集約せられ、総合科学技術会議が閣議決定に準ずる権威を持つことになった。
- 合科学技術会議では月1回首相出席の下で本会議が開かれる。従来からの原子力委員会、原子力安全委員会、宇宙開発委員会もその下位に置かれているし、従来の科学技術会議には含まれていなかった人文・社会科学もこの会議の所轄分野になった。科学技術政策の一元化を成し遂げたという意味で、歴史的意味は大きいと吉岡氏は解説している。会議では重点配分を要する4分野が選定された。ライフサイエンス分野、情報通信分野、環境分野、ナノテクノロジー・材料分野。これらは環境を除けば一昔前から各国政府が一致して将来の成長分野として取り上げていたものばかりで、どの国も否応なしに経済ナショナリズムに即した研究体制を作りお役に立つ開発研究に血道を上げている。
- 先日21世紀COEプログラムによる重点的支援研究教育拠点が発表された。人文から自然までの10分野にわたり1件当たり年間1〜5億円程度の支援を5年間程度予定している。対象は大学院で、申請は学長が行い、審査はノーベル賞の江崎さんを委員長とする学識経験者である。結果は七月世相寸描に述べるように旧帝大それも東大京大偏重の選択であった。委員を見ると京大関係者など殆ど出ておらず、それにたいして私大関係者の数は多いのに、この結果であったことは実力的にはこんな序列という事なのであろう。何か世の中の常識が肯定されたような気もする。このプログラムは日本学術振興会に置かれている。学振会の起源は古く本書上巻に詳しい。今は文部科学省の特殊法人だが、設立時は財団法人で、天皇陛下から下賜された150万円が基金になった。戦前から総合研究の促進に中心的な役割を演じてきた。若手研究者の養成が設立目的の一つになっている。このプログラムも明らかに経済ナショナリズムの具体的成果で、学振会にとっては永年の悲願とするところであったと言えるだろう。
- 本書の本文に戻り、終章とその前の12章のページを開く。著者は科学の体制化は、科学を存続させる制度的機構をつくりだしたという。例えば研究会がある。今や科学者は研究会をやめるわけにはいかない。研究会にも参加せず、研究費も交付されない科学者は、今日の条件の下では科学者として存在しないのと同じになるからと補足する。研究者の学問的利益のために出発しても、そのうちに研究会は研究費の交付を受けるための便宜組織になってしまう。昔聞いた上方落語の佐々木裁きではないが、研究者は頭に天保銭1枚を乗せられたら転んでしまう起き上がりこぶしのようなものだと仰る。民主主義科学者協会系らしいどきつい言い回しで、科研費などには縁の遠かった私はただただ恐れ入るばかりである。
- 機構にはまった研究者は機構の部品のような位置に追い込まれて行く。プロジェクトの一端の機械的操作に身をやつす部品である。研究設備の自動化高級化は、ブラックボックスをあてがわれて、指示通りにボタンとレバーを動かす研究ロボット化を進める。技術進歩によって熟練とかスキルがどんどん機械に取り込まれ、生産労働者が疎外されて行くのと軌を一にしている。確かに広重先生の指摘する一面はあるだろう。しかし研究者にも生産労働者にも能力に応じた階級が自然に発生する。先生はその中の一番下層を言い当てているに過ぎないと思う。
- 科学者は国の予算を研究機器メーカーに流すためのトンネルに過ぎなくなると云う指摘も一面では正しい。しかし昨年のノーベル化学賞受賞者の田中耕一さんが研究機器メーカー島津製作所の研究員で、受賞研究は新しい機器分析法の開発だった。メーカーはメーカーで科学の研究に勤しまなければ競争にたちまち負けてしまう。開発に先行した機器メーカーがたちまち後発に追い抜かれた例は幾つもある。広重さんは科学を何か非常に狭く考えているように思われる。
- '60年代に入ってから顕著になった傾向は、基礎研究が新技術に繋がるという神話への疑問と環境破壊への反省であった。OECD(経済開発機構)は70年代に全加盟国の実質国民総生産を50%増大させるという目標を設定し、その実現のための第1の要件を科学研究と技術開発に求めた。しかし'71年には予想もしなかった深刻な困難によって科学技術政策は大きな転換を意識せざるを得なかった。特に環境汚染が最大の難問で、開発に伴うテクノロジー・アセスメントが喧しく云われるようになったのはこの頃からである。
- 二次大戦中に原子爆弾、レーダー兵器、ロケット、抗生物質などを生み、革新技術の卵を生む親鶏として基礎科学は戦後国防費をはじめあらゆる予算から優遇されてきた。しかし'70年代中頃になると、基礎研究を盛んにしておけば、やがて経済的な見返りが期待できるという考えは、はっきり否定されるようになった。特定の目標に向けて方向付けられた研究・開発だけが、少なくとも短期間的には、有効であると云うことになった。政府は研究費支出の重点を、応用研究に移し始めた。研究投資の頭打ちは研究者の就職難、失業を生み出した。有人月旅行が成功してアポロ計画が峠を越すと、NASAから大量の研究者、技術者が解雇されたのは有名である。ヴェトナム戦争をきっかけに学生反乱が起こり、影をさしていた科学信仰をさらに一層打ち壊す結果になった。それと共に大学人・科学者の権威も失墜している。欧米先進諸国では'70年代に既に理工系は不人気になり、その波は今日本が被りつつある。
- 昭和10年というと不況の真っ直中の年である。戦争に敗れた年はその頃の1/8の生産力しかなかった。それが'70年には11倍に躍進している。一番大きなきっかけは朝鮮戦争である。第11章にはそのころの経済活動を支えた科学の体制を総括している。'57年の岸内閣の新長期経済計画では電子技術、オートメーション、アイソトープ、高分子化学等の研究を促進し、理工系大学の学生定員の増大を計るとしている。ソ連のスプートニクは本計画直前に打ち上げられている。のちの総合科学技術会議の原型と云うべき科学技術会議はこの時に生まれた。
- 科学技術会議は'60年に所得倍増計画と平行して科学技術振興10年計画を纏めた。機械工業と化学工業の振興に重点が置かれている。筆者はこの中に科学技術基本法('95年成立)の提案があることを重視している。理工系学生は3.4倍に増え、企業の中央研究所ブームが到来した。筑波学園都市が開かれたのもこの時期である。研究費は6.5倍に増加した。後半に入って伸びたのは原子力と宇宙開発であった。基礎科学もまた体制の網の目に組み込まれることによって、予算も組織もそこから十分に利益を得ていた。自然科学研究者数はこの10年間で2.1倍の17万人強となった。ことに数学と物理学が法外(学生数でそれぞれ5.5、4.2倍)な伸びを示したことは、エレクトロニクス、宇宙、情報化という'60年代の花形新技術がこれらの分野に幸いした。
- 第10章が日本学術会議の成立、第9章が科学の体制化、第8章が科学動員の終局、第7章が科学者・技術者の教育となっている。下巻は第7章からである。日本の科学史はなんと云ってもいじけた被占領時代よりも、高度成長に乗りやがて環境問題の反省期に入り今日に至るあたりが一番面白い。第11章以下と'70年以降の補足の意味を持つ解説の紹介に紙面の殆どを使った理由である。
('03/07/25)