木下大サーカス


都内は今高層ビル・ラッシュだそうだ。そのあおりを食って、千葉県の幕張副都心計画はかなりの敷地を残したまま減速してしまった。だが、千葉でサーカスが見れるのはそのおかげとも云えるから、皮肉なものである。ともかく広大な整地済の空き地を使って、木下大サーカスがテント小屋を張り、2ヶ月あまり公演してくれることになった。小屋は海浜幕張駅から歩いて10分ぐらいの場所である。減速したとは言え、副都心計画は歴史が深く既にかなりの企業が定着し、それにつれてご婦人向けの瀟洒なレストランまで進出しているから、観光気分でおとなうことができた。大サーカスは開演が1時頃で演技は2時間ほど、途中で1回の休憩を挿んでいる。我々は新聞社の招待券の他に特別自由席券各人900円を支払う。正面だがだいぶ奥の、最後部から4-5段目ぐらいに座った。
寝そべった女が足で樽を回す芸、固定したテーブルに椅子を次々に積み重ねてその上で逆立ちをする芸などお馴染みのものである。檻に入れた美女をトラに変えたり消したりするマジック・ショーも、世界のサーカスとか何とか云う題のTV番組で見たとおりである。外国人だったが、ピエロはなかなか笑わせたし、小さな金属球の中をオートバイが走りまわるショー(曲乗り)も良かった。急角度の綱を和傘を持って登り渡る軽業が披露された。日本古典芸を復活させたものとアナウンスされた。
伝統芸としては、寝た受け方が支える障子に和歌を筆でそれも逆さに書いて見るという手の込んだ足芸や、1本の棒を肩で支えその上に乗り手が演技する肩芸もあった。動物ショーにはシマウマ4頭のダンスがあった。キリンも出たが、長い首を曲げて客から餌を食べさせて貰うだけだった。それが芸なのかも知れない。ライオン、トラ、ヒョウの猛獣使いは空中ブランコの1つ前に演じられた。こればかりは猛獣と調教師の直接対決で、多分万一の安全策など無いだろうから、ライオンが吠えるたびに緊張させられた。
私はサーカス見物は2度目である。最初は昭和26年だからもう半世紀以上昔になる。京都駅前の広場で小屋掛けしていた。その頃は京都駅前にも空き地があったのである。矢野サーカスであったと思う。その小屋の前で何週間も私はアルバイトに、土地の顔役というのか地回りというのか、彼らの支配下でアイスキャンデーを売っていた。最後の日だったかに無料で小屋に入れてくれたのである。小屋前にサルが繋いであった。アイスキャンデーを買った客の中にはサルにそれを食わせる人がいたので、憶えている。今回の木下大サーカスでは2/3ほどが外国人だったが、当時は外国人の出演は勿論なかった。向かい合った女2組がそれぞれ3本のテニスラケットを落とさずに投げ合う業が妙に印象的であった。
和芸として、水芸というのであろうか、裃のあちこちから噴水を自在に上げてみせる芸も記憶に残っている。今回は綱登りで1回、空中ブランコで1回曲芸師が落下した。いずれも安全綱や安全ネットのおかげで大事に至っていない。京都の半世紀前はどうだったか記憶にないが、曲芸師が祈るような真剣な面差しで一点を見つめていた顔をふっと思い出した。芸がスタートするまでにその頃はかなりの時間をかけていた。流石に空中ブランコには網があった。でも普通は安全対策なしが常識で、またそれが誇りだったのではなかったか。
サーカスのテント小屋はアメリカ映画「世界最大のショー」に見たような構造だった。小屋前に物売りの店が建ち並ぶ姿まで似ていたようなきがする。京都で見た小屋は、少なくとも外見は、昔の見せ物小屋的であったように記憶する。その延長で、到着前は、ジンタと言ったか小楽隊が木戸の二階に陣取り、「天然の美」を演奏する姿を想像していた。これは、ドイツのサーカスが来日したときに彼らが好んで演奏したという、日本の作曲家(田中穂積という海軍軍楽長だったそうな。)によるもの悲しい調べの作品である。でも最後まで「天然の美」は聴けなかった。

('03/01/27)