熊野三山初詣

昔、冬休みに吉野から大台ヶ原を越えて新宮に降り、瀞峡をプロペラ船で観光したことがある。台風が通った年だったから、あちこち倒木が道を塞いでいて登るのに難儀した。山麓で樵の家族に泊めて貰い、山頂では測候所に宿を借りた。新宮では旅館に泊まった。夕食は今考えると普通の和食だったが、貧しい学生には山海の珍味で、堪能したことを憶えている。だがもう一日の旅費が無く、三山詣は後回しになった。その機会が丁度半世紀経てやって来た。「新春 連休の南紀クルーズ」というぱしふぃっく びいなすの船旅である。
初詣の旅だから船の中では正月行事が色々執り行われる。先ず鏡開き。出航は丁度その日に当たる11日であった。枡酒に頬が染まる。羽根突きを見るのは何十年ぶりだったろうか。それにカルタ取り。あちこちの飾り付けも正月らしい。食堂には大きな門松が立ててあった。でも夕食は洋食のコースだった。それに次の日のオプショナル・ツアーで出た昼食とその日の船の夕食−和食−のメニューが類似していてガッカリさせられた。ここは当然初日が和食で正月献立、次の日が洋食であるべきであった。実は今回の一寸前にこの船による昼食ミニクルーズがあって、それにも参加している。1品1品は立派だったが、懐石料理に見かけるような、薄味から濃い味へと配膳を進める繊細さに欠けていた。料理長さんには一考願いたいものである。2日目のメインショーは「乙女夢ごろもステージ」という純和風の舞台であった。和楽器の生演奏は久しぶりのように思った。全員女性の奏者で、ことに津軽三味線が良かった。他は琴、小太鼓、鼓、鐘に歌と踊りである。これも正月番組なのであろう。
我々は例によって船底の5Fにある一番安い船室である。そのフロアーにはフロントとかツアー・デスクがあり、かつ上階と同様に船首から船尾にかけて客室が並ぶ。だからか飛鳥のようなほんとの船底という印象はない。廊下も船室も新しいだけ傷も少なく、機能的で清潔な印象であった。ベッドは2台が固定で、あと1台の常時は長椅子の補助ベッドがある。固定ベッドはベッド下が高くて、大きなトランクを収納できるようになっていた。飛鳥だと我々の大トランクは中に収容しきれないのである。備品に裁縫道具がないのと、冷蔵庫の飲みものの内、無料なのは水だけなのが違う。エレベータ数は飛鳥より1台少ないが、飛鳥と違って全部下まで降りてくるから好都合である。寝心地はキーンという高い周波数のエンジン音がやや高い程度で、私はあまり気にならなかった。振動はなかったし、横揺れもこの航海中は気にならなかった。11Fの展望浴場まで行くと結構揺れがあることに気付くほどである。
銅鑼が鳴りテープを投げた。出航の時に銅鑼を鳴らすのはもう日本船だけだそうである。セイルアウェイセレモニーは寒いせいか室内でやった。ドレスコードは3日間ともカジュアルであった。ただ船客にはインフォーマルに近い服装の人をかなり見かけた。連休だけあって若い夫婦や子供連れがかなりいた。ばあさんの2人連れ3人連れは相変わらずで、夕食2回は彼女らと同席だった。どちらも姉妹だといった。連れあいを亡くしている方もあった。結構ですなと挨拶しておいた。気の毒がるよりは健康的だと思っている。福井から来たという組がいた。以前秋田の組と一緒したことがある。随分遠くから来るものだ。今回は誕生日の記念乗船が多かった。食事は1回制でほぼ全テーブルが埋まったから、乗客は300人程度だったのだろう。定員の半分ぐらいだ。
オプショナルツアーのバス観光で巡った先は熊野速玉大社、熊野本宮大社、川湯温泉(昼食)、那智の滝、那智大社と青岸渡寺である。速玉大社の社務所に「なぎ人形」がお守りとして売られていた。境内に天然記念物のなぎの大木があって、その実を男女の頭に仕立てた紙人形である。なぎとは槇科の植物だと巫女はいう。あとで図鑑で確認した。立て札に宇多上皇以来の、平安から鎌倉時代にかけて、京都よりはるばる熊野詣をなさった上皇法皇貴族宮廷女官など、やんごとなき都人のリストが掲げてあった。


熊野速玉大社(熊野、'03/01/12)


熊野本宮大社(熊野、'03/01/12)

熊野本宮大社にいたる国道は熊野川沿いの県境である。熊野川は一時新宮川と云ったが請願により昔の熊野川に戻ったという。よほどの理由がない限り歴史のある名前は保存して欲しいものだ。石段を登り詰めると本宮の社殿が門の中に見える。日本書紀に名高い、神武天皇東征のとき道案内を勤めたという八咫烏はこの大社の幟印になっていた。ワールド・サッカー日本のシンボルマークにもなった八咫烏がここのお印だとは知らなかった。古事記にも似た記載があるという。近頃は都会の異常繁殖による鳥害で評判が悪いが、烏の賢さはシートンの動物記をさかのぼる千何百年の日本書記の時代から理解されていたのである。お守りにプラスティックの八咫烏を買った。三本足を、鈴を結んだ三本の紐で表現している。幟に書かれた称号は熊野大権現である。権現とは本地垂迹説に基づく神仏混淆の象徴的称号である。3神社を熊野三山というのも仏も神も一体化していた証拠である。熊野本宮大社は建造物としては一番見応えがあった。熊野造というと看板に出ていたが、向かって左の社殿は伊勢神宮の神明造だし、右の2社殿は春日大社の春日造に見える。この組み合わせを熊野造というのであろうか。速玉大社もそんな組み合わせになっていた。この3社殿は重文である。
参道脇に立て看板があり、明治の大洪水以前は熊野川川縁に社殿が存在したことを示す古地図の模写であった。その元社殿の位置を大斎原という。その位置に日本一の33mHと聞いた鳥居が立っている。近年に建立したものである。熊野川の土手間近の位置である。その奥に低い石垣が見える。大斎原だ。石祠があるだけで何もなかった。
川湯温泉は川原を掘れば湯が湧き出るところからついた名とすぐ解る。仙(千)人風呂は川原の大露天風呂で近年に作ったものという。旅館山水館に入り昼食になった。そこの露天風呂に行く。混浴だから水着を持って行けと書いてあったのでその通りにしたが、男湯女湯は別々で、誰も水着など着けていなかった。ただ女湯も露天のこと故丸見えだから、女どもは浴衣のままで入っていた。女には旅館が浴衣を貸すのである。仕上げに屋内の温泉にも浸かって引き揚げた。露天も屋内も温度は低かったが2回入ったことになったので、ちょっと湯あたり気味であった。温泉は重炭酸ナトリウム、塩化物系で、飲んでみると幾分アルカリ性と感じた。
那智の滝の水量はそう多くなかった。入場料(正確にはお賽銭。神域なのである。)を払って滝壺が微かに見える場所まで近づいたが、滝はド迫力の落水とは云えなかった。落ち口が三本に別れその上に注連縄が張ってあった。那智にかかる滝で有名なのはこの一の滝だが、あと幾つもあって全部で48滝あるのだそうだ。次回は梅雨時にしたい。
バスを降りて石段を461段登った。数えたのである。金比羅さんが785段だったからその6割だ。那智大社と青岸渡寺は隣り合わせである。ここも神仏混淆時代を色濃く残す社寺である。西国33ヶ所の第1番札所だそうだ。西国札所は四国の88ヶ所よりは古いそうだ。本殿も秀吉再建の本堂も重文である。古びたお寺側から神社を眺めると写真にはなかなかの構図である。遙かに那智の滝と近年建造の三重の塔が眺められる。このバスツアーの面々はみな時間をかっきり守る。一番遅い人でも予定の時間丁度には飛び込んでくる。ガイドが感心していた。私の経験ではクルーズ仲間は総じて質がよい。予定通りに港に帰った。"豪華"客船は珍しいのか、出航前にはかなりの人数の見物人が来ていた。私が投げたテープを拾ってくれた人がいた。
第3日は流石にみな朝寝のようで朝食の集まりが悪かった。和食。昼食も和食。昼ぐらいは軽い丼かうどんの軽食にしたらよいと思うがその選択はない。食事以外の時間はブリッジに行ったり、ショップを覗いたり、ダーツ、ペタンク、ビンゴなどのゲームに出て過ごす。暇なままに船のParticulars of Vesselを眺めていたら面白い事実を知った。ぱしふぃっく びいなす(PV)と昔の姉妹船おりえんと びいなす(OV)の比較である。Gross Registered Tonnage/Dead WeightがPVでは26,000/3060、OVでは21884/4863で総トン数つまり積める量が大きいPVの方が排水量が小さいのである。どちらも石川島播磨の船なんだがなぜだろう。あちこちで船員さんを捕まえて聞いてみたが知っている人はいなかった。
さてこれで日本の"豪華"客船3船全部に乗った。中ぐらいの旅は"平均点の高い"飛鳥、短い旅は"美味しい"にっぽん丸にしよう、時期と目的地でいいのは今回はぱしふぃっく びいなすだったし、船底キャビンでもっとも気に入ったのはこの船だ、普段割安感があるのもこの船だ、ここの倶楽部にも入っておこうと言うのが我々夫婦の結論であった。長旅になったらさてどれにするか。あと、ふじ丸というチャーター専門の船がある。これは見学会で見た程度でまだ乗っていない。

('03/01/18)