ニュートリノ天体物理学入門


本年のノーベル物理学賞受賞者・小柴昌敏先生の一般向けニュートリノ解説書である。「はじめ」に、中二のお孫さんで1/3、彼女のお母さん(外大スペイン語科卒)で半分以上解るようになったので、高校で物理をやった人なら問題なく理解できると願っていると書かれている。私は化屋ながら大学院まで行ったのだから、それこそ「問題なく」余所見しながらでも解るのかと思って読み始めたが、すぐとんでもない話だと思い知らされた。
本の最後に用語解説がある。20語あまりを定義している。偶奇性、アイソスピン、奇妙度、魅力度、ボトム度、トップ度、カラー。どれもこれも始めてお目に掛かる名称だ。言葉としては知っていても古い知識では役に立たないものもある。量子数など好例である。化屋の量子数は電子軌道を規定するものか、磁気共鳴に関する電子スピンや核スピンあたりまでである。ところが素粒子の量子数は、上記偶奇性からの数々に質量、電荷、スピンを加えたものとなっている。とにかくまともにガッテンできるのが1/4ぐらいだ。それを見越してか、小冊子なのに珍しく索引が付けられてあり、成果の意味づけにかなりのページが割かれている。学者としての良心を犠牲にしないで、出来るだけ易しく書こうとした苦心が伝わってくる。
私が学んだ頃は素粒子は陽子、中性子に電子の3つだった。大学に入ってから湯川(パイ)中間子が加わった。だがこの中で今でも素粒子に数えられているのは電子だけで、他はさらに小さな粒子から作られていると考えられている。これらの小さな粒子(クオーク)に、この本の主題であるニュートリノ、宇宙線から見付かったミュー粒子、電子・陽電子衝突実験から見付かったタウ粒子などを加えると、それぞれの反粒子を含めて素粒子は少なくとも90種はあるはずだという。クオークは実験的にはいまもって証明できない。それはクオークが極めて短寿命の不安定粒子だからだそうだが、その説明にはカラーという量子で説明される。カラーは3色で3原色が一緒になった無色(白色)状態の時には安定で観測が出来るが、単色状態は高エネルギーで寿命が短く観測できないという。カラーは、例えばクオーク3個でスピン3/2の複合粒子を作るとき、フェルミの条件に矛盾するジレンマを克服するため考え出された。第2章はこんな話だ。もうオールド・ケミストの頭はカオス状態である。そう思ってしまえと命令された方が先へ進みやすい。
カミオカンデは陽子崩壊寿命の実験から出発した。陽子は陽電子とパイ中間子に崩壊する。そこまでは検出が易しいが、パイ中間子がさらにミュー粒子とニュートリノに壊れる過程は、宇宙線を一杯に浴びている地表では雑音がうるさくて難しい。だから神岡鉱山の地底が選ばれた。水中を荷電粒子が高速で走るときに出てくるチェレンコフ光を捕らえるのである。チェレンコフ光は超音速機の衝撃波に似ていると説明してある。私が物理をならった頃はまだ超音速機などなかったことを思い出す。実験を始めると、この装置が天文学にとって非常に有効な測定装置であることに気が付いた。天文学では今までは天体から送られてくる電磁波の観測だけに頼っていたが、それにニュートリノという素粒子の測定が付け加わる。だから話は恒星の物理学に飛ぶ。
太陽はまだ若い恒星だ。芯のHeを厚いHが取り巻いている。高温高圧のためにH層の底ではHeを作る核融合反応が起こっている。その時様々のニュートリノを放出するが、中にはカミオカンデに検出可能な高エネルギーのものも含まれている。芯のHeが増えると芯の中でCが生じ、Cが貯まるとC同士のぶつかり合いになり、同様にしてどんどん重い元素が出来てくる。最後には鉄の芯が出来るのだそうだ。ここらまでが赤色超巨星の話である。鉄の質量が太陽の1.4倍を超すと、重力が原子核の周りの電子の圧力に勝って原子はガサッと潰れてしまう。芯は中性子だらけの原子核と同じ程度の密度になる。この硬い核が遅れて落ちて来る核反応の灰をはねかえす。その衝撃波が超新星爆発だという。この時大量のニュートリノ族が放出される。星の位置エネルギーの殆どを、ニュートリノとして放出するというから大変な量だ。ニュートリノは物質との相互作用が非常に弱いために、その星の内部から外へ問題なく突き抜けてくる。超新星などたまのたまにしか出現しないが、カミオカンデは動かしてから2ヶ月目に、その幸運に恵まれたというわけである。
宇宙の最大の問題はガモフ以来のビッグ・バンであろう。理論物理の究極は電磁気力、弱い力を統合した標準理論にさらに強い力を加えた大統一理論の確立である。素粒子の研究はそのいずれとも強く結びついている。一方では現実の観測値と理論の相異が見付かり、また新しい問題が発生している。果てしない夢が語られている。無限小に近いところから無限大に近いところまで、一昔前なら神無くして語れぬ世界の追求である。気宇壮大さにただただ感嘆するばかりだ。著者は記者会見などで、カミオカンデ実験グループからはさらにノーベル賞学者を1人といわず2人も3人も輩出できると強気の発言をされている。今は50倍にスケールアップしたスーパーカミオカンデの時代であるが、その次なる実験装置の構想も描かれている。
だが一納税者という立場からは研究予算の分配に一言云わねばならない。素粒子実験があまりにも金食い虫だからだ。多分加速器なども入れたら1000億円のオーダーだろう。ノーベル化学賞の田中さんの研究費はどう見積もっても全部で1000万円にならないだろう。しかも私企業のお金で我々とは直接関係がない。なのにその企業は田中さんの研究で十分潤ったと思う。10000倍の差がある上に、素粒子実験には実利が伴わない。物理にも化学にも日本から複数の受賞者を出した。だが、理系のノーベル賞3種のもう1つの生理学医学賞は利根川さんだけしか受賞していない。この分野は成果をもっとも多く輩出している世界でもっともホットな競争領域である。国民の税金を使う以上はある程度はコスト・パーフォーマンスを考慮する必要がある。一般論としては優先順位は生理学医学、化学、物理学の順ではなかろうか。

('02/12/18)