蒲団・一兵卒


田山花袋の旧作「蒲団・一兵卒」が岩波文庫から再版された。高校の日本史でその名を学んだのはもう半世紀以上昔である。明治40年発表というから既に1世紀近く経っている。現役の教官であった頃、学生が、僅か2-3年ほどの差しかないのに、その後輩たちの考え方について行けないとこぼすのを聞いたことがある。日本の社会思想・社会常識は今急激に変わりつつある。同一民族だろうが、同一文化では無くなりつつある。世代が違う相手には、互いに外人同士と思った方が人間関係がスムースに行くのではないかと思うほどだ。明治という、洋魂がすざましい勢いで社会に浸透していった時代の、個人の赤裸々な姿には、だから、興味が尽きないのかも知れない。
「蒲団(ふとん)」は、中年の小説家と若い女弟子の男女感情のもつれを、京都から上京してくる書生との三角関係から描く。花袋に実際にあった事件に基づく私小説だそうだ。女弟子は書生と肉体関係を持つに至る。小説家は「監督責任」を全うするために、女弟子を備中国(岡山県)新見町の父の元に帰す。「蒲団」は、彼女が去ったあと、部屋の押入から彼女が使っていた蒲団を引き出して、しばし恋慕の情に耽るところから付けた題名であろう。
時勢の移り変わりを花袋は細君−昔の恋人−を引いて次のように描写する。「細君は旧式の丸髷、泥鴨のような歩きぶり、温順と貞節とより他に何物も有しない、夫の苦悶煩悶には全く風馬牛で、子供さえ満足に育てれば好いとしている。それに対照的に、四、五年来の女子教育の勃興、女子大学の設立、庇髪、海老茶袴、男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人もなくなった。路を行けば、連れ立っての睦まじい散歩、友を訪えば夫の席に出て流暢に会話を賑やかす若い細君がいる。」と。世間の大半は旧式のままだったろうが、インテリ階級、上流階級の洋化ぶりがよく分かる。だが細君を泥鴨呼張りできるなんて、まだ明治であると思わせるのに十分である。今なら半殺しになるか、即退場命令を受けることだろう。
小説家は男女関係にはすこぶる進歩的である。女弟子には、「女子ももう自覚せんければいかん。昔のように依頼心を持っていては駄目だ。父の手からすぐに夫の手に移るような意気地なしでは仕方がない。だが、自分のやったことには自分が全責任を帯びる覚悟が無くては。」と説教する。そしてイプセン「人形の家」のノラの話をする。女子の節操について、「一度肉を男子に許せば女子の自由が全く破れる」からと理由付けしている。今こんな説教をしたらと思う。1世紀前の最先端の道徳思想も今では固陋の道学者と一笑に付されそうである。
小説家は結局女弟子に裏切られてしまう。そんな結末だったらいっそのことと、彼は彼女に対する欲情に悶え苦しみながら、表面はあくまで保護者として倫理的に申し分のない処置を取る。ついに一指も触れずに上京した父親に彼女を渡すのである。恋人の書生は生木を裂かれながら、新橋の停車場の柱の影から二人が帰郷する姿を見送る以外に手がない。普通は恋を成就させない頑迷な父親が悪役になるはずであるが、この小説での敵役は正に主人公の恋敵の若き書生である。父は素封家の県会議員で母は敬虔なキリスト教信者、娘を神戸のキリスト教関係の女学院に通わせ、小説家への弟子入りにも理解ある態度で臨んだ。新見町という山陽線から15里も山中に入った田舎では、飛び抜けて西洋文明に理解のある家族である。女弟子が事実を隠し、書生が言を左右にし不服従を面に現しても、ふしだらを理由に家長権を発揮すれば、娘は従わざるを得ない。それを当然とこの小説は考えている。
言文一致の文体が定着したことを感じさせる文章である。女弟子の書く手紙も言文一致だ。しかし、故郷に「強制送還」ののち師に送った手紙は、当時の公文書式の候文になっている。使い分けているなあと思う。引用されている「人形の家」はこの小説の30年ほど前の作品である。花袋はその中のイプセンの思想には賛同した。女主人公ノラは夫と子をおいて家を出た。その行動は彼の作品では採用されなかった。明治と言う新時代の限界である。それはあるが、「新しい女」の道徳破壊的行動がもたらす波紋を描いたこの作品は、今読むと、当今の思春期に入った子女の「道徳」副読本にしてよいと言えるほどの倫理観を伴っている。明治が受け継いだ時代の矜持である。
当時の地図がこの文庫本に入っている。新宿区には当時の町名がそのまま今も残っている。しかし文京区では全部消えたことが分かる。よく調べると、公園の名や学校の名に名残を留めている。坂の名に残っている町名もある。来年、黒沢−三船の名作「赤ひげ」が、映画かテレビか知らないが、リメークされるそうである。その活躍の拠点が「小石川養生所」であることは知っている。その小石川で古い町名を広範囲に置き換えたのだが、さてそれでよかったのだろうか。私の趣味としては、古い伝承の名をそのままにしておいてほしかった。そもそも町名変更で何のメリットがあったのだろう。

「一兵卒」は日露戦争で脚気衝心にかかり、一旦は野戦病院に入るがすぐ原隊を求めてさまよい出、虚しく満州の土になる一兵卒の短編小説である。いまどき脚気衝心と言ってもわからない。でも昔はありふれた病気であったらしく広辞苑にまで出ている。それによると、脚気(ビタミンB1欠乏症)は米を主食とする東洋特有の疾患で、足を麻酔させ、歩行困難にさせる。甚だしい場合は衝心して死に至らしめる。脚気衝心は脚気に伴う心臓障害で、呼吸促迫を来たし、多くは苦悶して死に至るとある。それが分かると兵卒の病苦と歩行困難の有様が至って素直に理解できる。
野戦病院の描写が顔をしかめさせる。汚い洋館の板敷、八畳位の室に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それに凄まじい蝿の群集、麦飯の粥に少しばかりの食塩、病院の背後の便所は急拵えの穴の掘りようが浅かったので、鼻と眼を激しく撲つ、蝿がワンと飛ぶとある。兵卒は胸のむかむかするこの場所より戦場の方がよいと医師の制止を振り切って出て行く。日露戦争では勝っていたからまだ良かった。負け戦の二次大戦での野戦病院は映画「あゝひめゆりの塔」のような姿であったろう。洞穴の病院からの撤退で動けぬものは自決用の手榴弾を渡される。
軍隊への呪い、戦争への呪い、死への呪いが兵卒の頭脳に次々に浮かぶ。「脚気で歩けないから貨車に乗せろと下士官に云っても乗せてくれない。武士は相身互いということがある。兵、兵といって、筋が少ない(ただの兵隊)と馬鹿にしやがる。意識朦朧とした頭に、妻の門出の時の泣き顔ではなく、美しい笑顔が思い浮かぶ。この身は国に捧げ、君(天皇)に捧げて遺憾がないと誓った。再びは帰って来る気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。そう言っても勿論死ぬ気はなかった。だのに今忽然と起こったのは死に対する不安である。戦場は大いなる牢獄である。」と。私は小学校時代に二次大戦を経験した。当時の雰囲気から思うと、その頃にこんな小説を書いたら、たちまち特高にアカ(共産主義者)か反戦主義者として捕まって、臭い飯を食うことになっただろう。日露戦争が終わった直後の高揚期に発表できたのは、花袋の反骨と世の自由思想浸透の賜なのであろう。

('02/12/02)