十一月の一面記事


犯人検挙率が20%を切り、日米英独仏の先進5ヶ国中の第4位に下がった。第5位は米国だ。その差は僅かですぐ最下位になりそうだ。'85年には64%もあった検挙率がである。10数年で1/3以下に下がるとはまことに衝撃的である。我々が丸腰を安全の基本にしてるのは高い検挙率を前提にしての話である。確かに武器を市民が携行保持する弊害は色々数えられる。しかし危害が迫っても対抗手段がない、脅迫に対する抑止力がないような社会であっては堪らない。欧米では護身用の火器保持が認められている。我々も認められるべきだ。日本はもう過去の極低犯罪率・極高検挙率社会であったころへの幻想を捨てようではないか。政府は地方公務員削減方針にもかかわらず、警察官は増員する方向だという。当然である。麻薬取締におとりを使ったと新聞に出た。犯罪者に警察が紳士付き合いをする必要はない。マスコミは警察の行き過ぎ報道と同じぐらいの熱意をもって、犯罪に関しては社会が重大な曲がり角にあることを論じ、市民の警察への協力を呼びかけるべきである。
11/14夕刊で新聞は一斉にイラクが大量破壊兵器疑惑解明に関する安全保障理事会の決議を受託したと報じた。今査察が始まろうとしている。我々はこの問題がアメリカの武力行使へとエスカレートしないことを望んでいる。しかしたとえ本件は無事に納まったとしても、フセイン政権が、アメリカの容認できない反米非民主的独裁政権である限り、次々に同様の波乱が待っていることも明らかである。民主的というのが世界に受け入れられている政治上のグローバル・スタンダードだから、軍事力では米国が圧倒的に強いのだから、米国や世界が求める国家としての最低条件は受け入れざるを得ないであろう。フセイン後のイラク石油利権をめぐる競争が始まっていると新聞が書いている。だが、石油でブッシュが動いていると言うような皮相な理解はすべきではなかろう。
11/25の毎日朝刊の6面に、「戦争するなら「大義」示せ」と外信部編集委員が書いていた。「大義」とはなんとも古典的である。7面には「米「新帝国主義」の不安」という記事が出ていた。毎日新聞の心配は分かる。しかし新聞が完璧に理解した頃には、世界は全壊に近かったでは後悔先に立たずである。科学技術の進歩で世界全ての国が互いに近隣国になった現代では、覆面のゲバ棒不審国は、世界の何処にあろうとも、怪しい内に叩いて置かねば我が身が危ない。前記の「検挙率」の話と何か似ている。新聞に勤めると他人の「大義」ばかりに目が行って、危機管理意識に先行するようになるのであろうか。アメリカは実効上の世界警察をやってくれている。感謝せねばならないであろう。そして次の対象は北朝鮮と言うことにならないように祈っている。
北朝鮮の拉致事件は相変わらずマスコミを賑わせている。日本に帰った5人がテレビに出てこない日はない。朝日と毎日とどこかのテレビが横田めぐみさんの娘と、週間金曜日が曽我ひとみさんの家族と北朝鮮で抜け駆けのインタビューを行い、世間の非難を浴びた。言論統制国の情報管理に引っ掛かったと言う非難と、微妙な家族内のプライベートと言ってよい内容を、不慣れな在北朝鮮年少者から引き出し公開するなど、滞日家族側の衝撃も考えず、礼儀をわきまえぬ行為という非難が重なった。マスコミとしての競争のためには、あるいは売らんがためには個人などどうでもという「筆の暴力」をよしとする姿勢は非難されていい。
読売11/5朝刊に「変わる憲法論議(中)−統治機構・「首相権限」強化に関心−」がでた。内閣法6条では首相は閣議決定を経ないと各省庁を指揮できないが、これでは緊急事態への対処はおぼつかないし、行政問題のタイミングを外さない迅速果敢な処置など望むべくもない。国政のもたつきぶり、改革の議論倒れにはもう飽いた。いっそ憲法65条まで改正して、行政権の所在を内閣から首相に改めてはどうか。まあそんな議論の紹介である。私は首相を公選制とし、米国大統領並みの強大な権限を与える方向が世界の流れであると思う。選挙民の被選挙者への期待は選挙区への貢献が第一である。首相選挙は、だから国会議員が全員全国区なら今の間接選挙制で我慢せねばならないが、小選挙区を残す限りは国民投票による直接選挙にすべきである。この憲法論議には道州制の採用についても述べている。基本的には草鞋履きで往来した時代の行政単位が今の都道府県である。こんな狭い単位では今の日本人は息苦しくて仕方がない。
読売11/4朝刊に教育基本法の問題点を論じていた。GHQの指揮下、軍国主義一掃を眼目に出来上がったと言う生い立ちから始めて、「個人」「個性」「自主」を尊重するあまり、国家や社会などの「公」を軽視する結果となり、それがぶざまな人間関係の社会を作る原因になったと言う反省が中教審の中間報告になったという。学級崩壊、校内暴力、少年犯罪の凶悪化などはもう遙か昔に兆候が議論された問題だった。国会も行政もどうしてこんなに鈍いのだろう。実地に中間報告の効果が出てくるのはまだまだ先なのである。首相公選論に惹かれる理由の一つでもある。
読売11/8朝刊に大きな活字で「勉強に意欲も自信もなし」という見出しが踊った。日本の中学生を米中と比較した結果である。小見出しで、「数学わからない−米中の3倍」「自分に満足−わずか9.4%」とあった。希望する学歴は日本は殆どが大学までで、中国では半数近くが博士コースまでを希望している。日本では「スポーツ」「音楽」には頑張りたい人は多いが「学問」したい人はマイナーである。中国では「IT」「学問」がトップだ。米国では「スポーツ」と「学問」が同率であった。「自分に起こったことは自分の責任」と考えるのが米国6割、中国5割なのに対し日本は25%と、人のせいにしがちな日本の現代っ子気質が浮かぶとある。戦後営々と築いてきた我々世代なりの成果も土台が崩れ始めているのを感じる。
吉田徹郎氏に「藤原正彦博士の初等教育論」と言うメモを頂いた。それには藤原先生は「初等教育には独創性・創造性は百害あって一利なし。(初等教育は)画一的・強制的でも全く構わない。」というお考えだとあった。独創性とか創造性とは、個性とか自主性を伸ばそうとする教育基本法のうたい文句に一見適っているように見える。しかし、子供をレベルの低い内から勝手に泳がせると、そのレベル内の独創性・創造性に留まって、社会の必要とする人材には縁のない人間に終わってしまう。初等教育で個性とか自主性を尊重しているように振る舞うのは、社会のニーズから云えば教育者のサボタージュなのである。

('02/11/27)