長期停滞

- 日本から始まった長期停滞の行方は正に混沌としている。金子勝:「長期停滞」、ちくま新書、'02は「経済学者ほど信用ならない人間はいない。」という自戒的な言葉から始まるタイミング良い好著である。著者は市場原理主義的な主流経済学に対抗する立場で書いている。70年昔の大恐慌に至る経過と、現代の経済縮小傾向が類似しているという。この指摘は新鮮な驚きであった。すでに、世界経済を動かす力が、財・サービスの生産および貿易の側から国際的な資金の流れの側に移行していた(宮崎義一:「複合不況」、中公新書、'93版)し、経済環境特に通貨環境はグローバリゼーションの名の下に大変革を受けていたのにもかかわらず、酷似しているという。この本の難を云えば、迫り来る巨竜・中国の影については殆ど触れられていないことぐらいである。
- 儲け口を見つけようとマネーが世界を彷徨う。グローバリゼーションはマネーがさまよう間口を広げるための口実である。食い荒らされた儲けの草場は不毛の地となり、不良債権ばかりが残っている。ニューエコノミー神話は、行き場の無くなったマネーがアメリカの新技術(ITとバイオ)に集中した結果、実質を越える景気を生んだ。ナスダック・バブルが弾けるのにそう時間はかからなかった。運用のあてが狭まるにつれ金利が低下する。政策金利は日本では既にゼロ直前だし、アメリカのそれも今や1%強で、もうあとがない。過去、政策金利操作による景気回復で評判を得ていたグリーンスパン(FRB議長)神話は、もう地に落ちたとされている。
- 江戸時代の日本は、藩単位でつながる閉鎖社会であった。今はグローバリゼーションと科学技術のおかげで、世界が国家単位でつながる球表面という閉じた社会になっている。江戸時代は長期停滞社会であった。預金金利は、預けた方が礼金を出すマイナス金利であった。アナロジーから云えば、随分乱暴な話だが、マクロには世界の経済は日本の江戸時代に入ろうとしているようにも思える。こんな話がこの本に入っているのではない。私の妄想である。でもちょっと見には研究に値する発想のように思う。歴史は繰り返すと著者も云っている。
- 昨今の竹中先生(金融・経済財政担当相)は散々である。10/23の新聞には「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」の中間報告の発表を見送ったとある。グローバリゼーションの一環のつもりであろうが、アメリカの会計方式を今ダイレクトに持ち込んでご覧なさい。銀行の財務体質は見かけがさらに悪くなり、国有化かとばかり売られる。株価下落に拍車を掛けるだけだ。島津製作所の田中耕一研究員がノーベル化学賞を取ったと云うだけで、島津の株価は上がりっぱなしである。有り余ったマネーが何かを転がさずにはおれない状態なのだ。こんな時期に銀行を俎上に乗せたら何が起こるか知れたものでない。
- 私も日本が先頭切ってグローバリゼーションの荒波に突き進むことはないと思う。今でも十分にその荒波を被っているのだ。この本には、「(グローバル・スタンダードに擬されている)BIS規制(自己資本比率規制)や国際会計基準は、覇権国アメリカの社会的制度や文化的背景を色濃く反映している。背景の違う国々にそのまま適用すれば、たちまち制度的摩擦を引き起こし、時として金融システムや企業システムに破壊的作用をもたらしてしまうことがある。つまり、金融制度や会計制度と言った分野は、客観的ルールを設定したり、合意したりすること自体が難しい分野なのだ。」とあり、アメリカが「世界一透明だと自負してきた会計基準が、アメリカ企業自身が行ってきた会計粉飾(エンロン破綻以降吹き出した会計粉飾のこと)をチェックできなかった。」と指摘している。アメリカやEU諸国にとっては、日本が自身のリスクにおいて、ちょっとでも大恐慌に対する怯えを引き延ばしてくれるのはまことにありがたいお話だが、世界経済は日本だけではどうにもならない。リスクをおかすべきは、超大国のアメリカであり超大連合のEUである。
- 竹中先生を始めとする政府の面々は、実績作りに焦りを感じているのではないか。このように「竹中先生」が始めに出てくるのもちょっと可笑しい。与党の誰かが突き上げているように、小泉さんはもっとも厄介な問題に対して先頭を切らないのは狡い。神様グリーンスパンすらアメリカの「緩やかな回復」論に終始しているのに、V字型回復論のアナリストの口車に易々と乗って、政府は日本の「景気底入れ宣言」をやってしまった。実態以上に明るく振る舞うのはもう何遍目であろうか。市場不安定期に「大きすぎてつぶせない(too big to fail)とは思わない」発言もある。金融界のモラル・ハザードぶりにカツを入れるおつもりだったのだろうが、信用収縮を助長してはいけない。
- 「第3章 ゆっくりとしたパニック」「第4章 不良債権問題が致命傷」に入ると著者の論調はますます現政権に厳しくなる。銀行と金融監督庁がなれあいで水増しし飛ばし隠した不良債権が、公的資金投入で「最終処理」したはずなのに、次々と年を追う毎に増加してくる。「そごうグループ」も「マイカル」も破綻懸念先債権ですらなかった。当然解っていたはずだが、大型負債に引当金を積めば、銀行の悪化した財務状態が露見するからである。「最終処理」は4回を数える。だのに、銀行は法定準備金も取り崩した体力完全消耗状態に追いやられている。先進諸国において2-3年間少なくとも5年ほどで不良債権問題を解決できたのに、なぜ日本だけが出来なかったのか。小泉内閣は、最初から不良債権問題の「戦犯」を責任者に据えているからだと言う。戦犯とは竹中氏、辞めた柳沢氏および森前金融庁長官である。
- デフレが停まらない。信用収縮が停まらない。経済は縮む一方である。財政赤字が停まらない。国債は際限なく増加して行く。このスパイラルを断ち切る処方箋など何処にも書いてない。だが、もはや政治にしか解決の糸口はないと言い、政策の着手優先順位は書いてある。もう銀行の国有化は避けられないと観念して、思い切った公的資金投入をやれと言う。銀行を国有化するのだから、郵貯を民営化するなど全くお笑いである。グローバリゼーションなど今は有害無益である。
- ただ、公的資金投入には不良債権の厳格な査定が必要である。新聞情報であったが、朝銀が破綻したとき2-3千億円の投入で済む予定であったのが、蓋を開けると1兆を遙かに超えていた。銀行は、不良債権を小出しにしては見かけを繕っていると思って掛からねばならぬ。最初の公的資金投入を行った'95年に、これだけの決心をしておれば、国民の出血はまだ軽傷程度であったろうにと、井上ひさしの戯曲:国語元年の「バカタン」という言葉が思い出される。あの頃はマスコミ−国民−も公的資金注入には拒否症に掛かっていて、我々も同罪であるから偉そうな口は利けない。しかし、第2回の公的資金注入の頃までには十分の時間があったのだから、国民の納得する政策として実行できたはずである。
- 私は社会問題を扱ったご本を読むのは苦手である。どうせ臣(吉田)茂(元首相)が、「曲学阿世の徒」と呼んだ学者の正論が「一応」理路整然と書き並べられているか、現世で大手を振って歩いている連中が、臆面もなく、まことしやかに逃げ口上を述べ立てているかだからだ。大抵読み進むに従って腹が立ってくる。理路整然に「一応」を付けたのは、ノーベル物理学賞の小柴先生がおっしゃるように、理論家の中には、主張と相反する事例を無視して掛かる輩が多いからである。分かっているのにまた読むのは、子孫を残している以上は現世から離脱できないためである。子供を作らなかった自分一代の人とは現世に対する責任感は違う。これは一般化して云っていいことだと思っている。
('02/10/28)