カミュの「異邦人」

- この本も[Yonda? 新潮文庫の100冊」の書棚からピック・アップした。もう60年も昔の本である。カミュなんて名を忘れかけていた。当時はサルトルと並べて、フランスの2大小説家ともてはやした。ノーベル文学賞を貰っている。中央文壇とは無縁の地中海南岸アルジェに育った。そこはフランス植民地であった。今はアルジェリア国の首都である。小説「異邦人」の舞台になっている。理科年表で見ると、大体東京と同じ緯度で、温暖な地中海気候の土地のようだ。東京との差を挙げれば、冬はやや暖かいこと、夏は極端に降雨量が少ないことぐらいか。小説には夏のきらめく太陽に関する描写が多いが、この年表のデータからも納得がゆく。
- 二部に別れている。第一部は、主人公ムルソーのけだるい日常生活の中で起きる事件の描写である。ムルソーは、同じアパートに住む女衒が情婦を折檻する手助けをする。彼とは何でもない浅い付き合いの知人関係である。情婦は現地人(アラビア人)で、納まらぬ兄は仲間とともに女衒の周りをうろつき始める。しかし先に手を出したのは女衒側だった。3回目はムルソーと兄の偶然の出会いだった。ムルソーはピストルで兄を射殺し、更に4発を打ち込む。第二部はムルソーが裁判で死刑の判決を受け、刑の執行に引き出される前までの経過である。だから舞台は裁判所と刑務所だけである。
- 私には裁判に現れるフランス人社会の機構とか思想とかがことに興味深かった。まず被害者側の証人が1人も出廷しないことが奇異である。植民地の現地人はそんな扱いであったのだろう。裁判はフランス人のものである。裁判官、陪審員、弁護士、憲兵、傍聴人など、いずれにもアラビア人を思わせる記述はない。それでいて裁判そのものには支配被支配の依怙贔屓の匂いはなく、陪審員制度の下ではこんなところかと、納得させる判決に導かれる。小説の中だけかも知れない。だが、植民地におけるこの奇妙な公正さは、ひどく印象深かかった。
- 検事の立証に有力な材料となったのは、ムルソーが、老母を公立の養老院に送り、そこで死なせた事実である。老母の葬儀における彼の事務的な姿勢は、実際を取り仕切った養老院側の証言で明らかにされて行く。検事はムルソーの心の奥底に潜む非情さを陪審員に訴えたわけである。ムルソーは関係がないのにと苛立つ。司法試験合格者すべてが心身共に健全な模範的人物であれば、陪審員制度などに頼らなくても良い。だが合格率1%の難関突破に勉強ばっかりであったために、六法全書には明るくても、全人格的には未発達どころか、いびつなエリート意識人になった司法人が裁いていたとしたら、どんな社会になるか。日本の裁判にも健全な常識を導入する必要を思わせた。
- 判決は、フランス人民の名において広場において斬首刑と言うものであった。「人民の名において」とはいいなあと思った。最後まで人間が責任を負っている。日本の判決文にはどう書いてあるのだろう。「広場において斬首刑」とは、明らかに見せしめの刑であることを示す。見物人も直接に社会のルールを思い知るのである。人民参加型なのが良い。最近の新聞で、ムシャクシャするからと小学生の列に自動車で突っ込み、その時は心神喪失状態だったと精神病棟入りに逃げ込もうとする犯人の裁判記事を読んだが、「日本人民の名において広場で死刑」にすべきではないかと反射的に思う。精神は正常と判断されても、日本の今の裁判ではせいぜい10年ほどの刑務所入りだ。なんとも歯痒いのである。
- ムルソーは最後まで神を否定する。何とか神の祝福を受けさせようとする司祭に怒りをぶつける。一貫して虚無的な彼の態度はそれなりに立派である。「異邦人」とはアラビア人の中のフランス人を指すのだろうが、社会通念からはエキセントリックな人と言う意味をも込めてあるのだろう。なお、巻末には作者の紹介と作品の哲学的な評論がある。評論の方はさっぱり理解できなかった。よくあることだ。文学部出身だったら解るのであろうか。
('02/08/21)