徳島県立博物館

- 文化の森に、県立の公共施設が建ち並んでいる。阿波踊り見物の次の日にここを訪れた。徳島駅から市原行きの市バスに乗る。車窓から昼日中なのに踊っている公園が見えた。練習でもしているのだろうか。町の中心を離れると、すぐ、道は片道1車線ぎりぎりの狭い道になった。剣山に行く国道のようだ。市原でシャトルバスに乗り換えて、川を渡るとそこが文化の森である。博物館、近代美術館、図書館、21世紀館それから文書館があったか、瀟洒な洋式建造物群である。前庭も良い。エントランスホールに入ると、後背の山の傾斜を利用した階段状の滝があって、遙か奥から水の流れ落ちてくる姿が眼に飛び込むように設計されていて、入館者に一服の清涼感を与えてくれる。比較的新しい建物で、私の昔の地図には記載されていない。
- 博物館1Fの企画展「海道をゆく−黒潮のはこんだもの−」は、丸木舟造りの鑿型石器からプラスチック・ゴミ漂流物まで、南方から日本列島へ向けて、運ばれ運んで行った数々の品を要領よく並べていた。黒潮文化圏のまれびとの系譜には、なまはげに似た民俗風習が紹介されていた。メンドン、ミクロとかアンガマは、お面の外見は違っても、伝承の民俗行事としては同じ系列であるそうな。逆方向の流れは、この企画展の対象ではなかったようだ。黒潮に逆らって伝わって行った文化を展示しても悪くないのに。
- 常設展はなかなかの出来映えだった。太古の展示物として、恐竜などの化石が結構たくさん展示されてあった。1万年ほど前に死に絶えた、南米の大型哺乳類の骨格標本は始めてみた。アルゼンチンの大学との提携のおかげと言う。歴史資料が急に豊かになるのは蜂須賀公入国以来のようだ。阿波藩は、初めは17万石だったが、最後は淡路島を加えて25万石であった。テレビドラマ「お登勢」で知った稲田騒動の家老稲田家の文書も展示されていた。阿波踊りに帯広市からの参加があったが、あれは稲田騒動後の北海道移住と関係があるのだろうか。徳島城の復旧模型、江戸上屋敷の詳細模型など、大名に関する展示は、江戸東京博物館ほどではないが、一応満足できるものだった。
- 徳島には藍に関わる遺跡が多い。脇町に行けば、船着き場を裏に備えた藍問屋跡があるし、吉野川の河口近くには、藍住町だったか、昔のままの藍玉の手工業工程を見せる藍の館がある。化学的にも藍の建て染めは高度な技術なので、私が勤めていた四国の学校では、工業化学科の1年生の化学実験に取り入れていた。藩の専売政策で江戸時代は「阿波25万石、藍50万石」と称されるほどに栄えたという。そういえばバスの経路に紺屋町と云う町名があった。昔の町名をのこしているとは結構なことだ。常設展ではパネルと模型で一般的な説明がしてある。沢山の工程を羅列するだけでは無味乾燥なので、何がどう変わるかという説明を、出来るだけ科学的にやるようにお願いしたい。讃岐や赤穂ほどには有名でないにせよ、阿波にも大きな塩田があったそうだ。
- 人形浄瑠璃は阿波を代表する娯楽の一つであった。私は阿波十郎兵衛屋敷跡で「傾城阿波鳴門」のさわりを見たことがある。この博物館では義大夫の声だけ聞かせてくれた。親をさがす巡礼おつるの話には、いつ聞いてもホロリとさせられる。人形操りはロボットに好適な題材である。それを合成音声と組み合わせて「傾城・・」を博物館の呼び物にしてはどうか。もう一つの代表的娯楽は阿波踊りだが、昔はすこし様子が違っていたようだ。規模の大きさは昔からのようだ。徳島の町は町並みなど感じられない雑然とした町だが、遠因は徳島大空襲にある。平塚市立博物館で見た焼け野原の写真も衝撃的だったが、ここの戦災風景も厳しい姿だった。平塚は海軍工廠が直接の理由だった。ここの焼夷弾攻撃の目的は何だったのだろう。
- 同じフロア(2F)の一部は近代美術館になっている。常設展を見た。椿貞雄、村上華岳、ピカソ、ぐらいを思い出す。それから鏑木清方。彼の「夏姿」は唯一私が立ち止まった作品である。殆ど観客が入っていない。隣接の図書館に行く。廊下でつながっている。2Fにあり、閲覧用の机椅子が書棚の間に適度に並んだ開架形式を取っている。大きい図書館で、利用者も多い。館員の数も多い。試しにモラエス関連の図書を調べた。結構ある。徳島に因縁の深い人物だからだろう、郷土関連資料の書棚に入っていた。
- 文化の森には正味3時間ほどいただろう。建物は立派だが、博物館と近代美術館に関する限り、これからも内容充実にお金を掛けねばならないだろう。アプローチがバスだけなのはちょっと心細い。レストランが1Fにあるが、場所が悪い。滝の階段が見える位置に置くべきであった。
('02/08/17)