男も女も装身具


このタイトルは今開催中の歴博企画展の題名である。和装の世界はどんどん遠くなって行く。我々世代は、親ことに母親が、少なくとも戦後のある時期までは日常も和装であったから、また、たまには着物を着る機会があるから、まだ解っている方だろうが、次の世代、その次の世代になると結婚式でも洋装が大半である。もう和装は祭礼の時とか演劇とか映画の中でしか見られなくなっている。男の和装は、女のそれより先に日常の服装から消えたから、我々世代でもかなりあやしい。装身具となると、この企画展ではじめてみる品が結構ある。武家の袂落し(たもとおとし)などその例である。和装時代のしっかりした理解のために、今回の展示は有用であった。以下は1000点は集めたという企画展(ギャラリートーク:日高薫氏)と、「袋物と装身具」講演会(講師:岩崎均史氏)の印象記である。
印籠とは元々は判子入れという意味だそうだ。なるほど漢字は印のかご(籠)となっている。武士の持ち物だそうだ。何段かの小室に別れていて、各小室に種類の違う丸薬を納めて持ち歩くのが立前だが、おしゃれの意味の方が大きかったそうだ。中には小室が引き出しになっていて、箱根細工よろしく、縁の隠し戸を引き上げると引き出しが顔を覗かせる仕組みのものがある。細工物の絶品である。闇蒔絵と言って、黒漆の上に黒い模様を浮き上がらせるような、渋さが好まれたという。何度も幕府から出された奢侈品禁止令が「渋さ」志向に働いているのかも知れないと聞く。
煙草入れだったとおもう、留め金に屋形船が彫ってあって、その障子が動くようになっている。開けると中の人が見えるという細工物があった。電気電子製品をなんでも小型化して世界の市場を日本が制覇したとき、日本人を矮小化志向民族と「かなり悪意を込めて」皮肉った外国新聞があった。私は、小型化は立派な産業文化上のオリジナリティであると反発していた。そのルーツが江戸時代にあることを、これらの細工物が語っているように思った。屋形船を彫った煙草入れは、肥後細川家の家老職松井家代々のコレクションの一つである。松井家は元は足利将軍の直臣で、室町幕府滅亡後転々としたのち細川家に随臣したという名家である。家老なのに徳川将軍拝謁が出来、代替わりごとに挨拶に出向いたという。何しろ八代に3万石を貰い、一国一城の例外として城持ちだったという特殊な家柄である。
オランダ渡りの壁革が意匠的に良い部分を切り取られて袋物に再加工され、高値で売買されたという。壁紙のように壁革を張り付けた高級住宅は、今でもオランダに残っていると聞いた。この壁革の国産化も試みられた。革の代わりに紙を使い、軽くて繊細な図案の袋物が、つい20年前頃まで伊勢で製造されていたという。袋物の工芸は和装の衰退とともに幕を下ろしたようだ。煙管の材質を質問した人がおった。鬼平犯科帳には、彼の父が京都で仕入れた自慢の銀製煙管の話が時折出てくる。煙管師も出てくる。昔は真鍮(Cu-Zn合金)の方が値が高かったという。パンフレット「男も女も装身具」には洋銀煙管煙草入簪の写真がある。洋銀とはCu-Ni-Zn合金それともメキシコ銀?
刀剣の拵えは大体室町時代に型が定まったのだという。刀剣の飾りには先ず鍔がある。それから縁頭。これは柄を構成する部品で、頭が先端の被い、縁が鍔直前に取り付けられるわっかで、相手の刀を受けたときに鍔が手元に滑り込まないようにするものだろう。目貫は柄と刀剣を固定する目釘の飾り止めである。それから大小の太刀の鍔脇の、鞘の鯉口にそなえる小柄がある。小太刀には取り付けないものもあるようだ。この小柄だが、ATOK12では「こづか」から簡単に出てくるが、ドクターマウスでは小柄は「こがら」としか読まない。気になって広辞苑第二版を引くと出ていない。角川漢和中辞典にも世界大百科事典にもない。おやおやと広辞苑第五版を見ると載っていた。昔は字引に載せるには、あまりに当たり前の名詞であったのだろう。
女ではなんと云っても髪飾り。NHKテレビ・ドラマ「利家とまつ」の女性は、肩を覆う程度にのばし、切り揃えた簡単な髪型だが、江戸時代から明治に掛けて数百の髪型が開発され、それぞれに流行したという。日本髪は髪結いでないと結えぬものになった。髪飾りの展示品は逸品ぞろいであった。歩くと涼しい音が微かに聞こえてくるびらびら簪。珊瑚の小粒で連結された多分銀製薄板の細工が幾本も垂れ下がっている。櫛と笄は大抵セットで作られた。象牙とか鼈甲とか珍奇な材料に丹念に模様をつけてある。象牙は染色しやすいが染まるのは表面だけなので、全面を染めたのちに白い地肌を模様を残して削り出す技法がある。鼈甲細工はお馴染みだが、まがい物として水牛の角が使われた。ガラスの切子を用いた例がある。ガラス製の櫛笄は、旗本屋敷跡などの発掘では非常に多く出土するそうだ。
箱迫(はこせこ)という私は今まで見たことのないプチバックがあった。武家女性専用とか。なんでも入れる小型の箱で、襟元に挿んで持ち運ぶという。ジャワの更紗布地の元々の花模様に、緑の糸で茎と葉を刺繍した図柄の紙挟みがあった。鏡入れ、紙挟み、枝折り、楊子入れ、守り袋などには、家庭の女性がひまひまに手作りした物が多い。枝折りには模様を編んだ細い紐が繋がれ、先端は房状になっていた。こんな模様編みの技術は今に伝わっているのかな。2-3年昔、祇園舞妓のおしゃれの焦点は帯留めだと聞いた。帯留めは明治以降の流行で江戸時代の品はそう多くないと聞いた。目貫がそのまま帯留めになっている。廃刀令が出て、失職した刀装職人が腕を生かして作った帯留めだ。
古墳時代にはあった勾玉のネックレスとか金の耳輪といった光り物の装身具類が、飛鳥時代になると消えて無くなってしまう。高専時代に染料を教えたときに、衣服の美しさに取って代わられた結果という説があると紹介していたが、今一つ自信がない。今回の展示では、古代では装身具は呪詛的象徴であったりステイタス・シンボルであったりで、誰しもが身につけることは出来なかったこと、中国からの制度が導入されるようになってからは、衣冠が後者の役を果たしたから、光り物が消えたという説明であった。一部の理由にはなっているが、も一つピンと来ない。美しさへの憧れが制度に押しつぶされることは絶対にない。
漢王朝展で見た金縷(きんる)玉衣を思い出す。軟玉矩形板を金糸で編んだ死出の衣装である。呪術的要素はあるにせよ、光り物への憧れは中国でも並みでなかったと思わせる。私は東洋宝石史なんか全然知らないので、これ以上は立ち入らないが、中国では現代まで光り物に憧れる伝統は継承されたと思う。だが、一点豪華主義の装飾品となるほどの石、つまりダイヤモンドとかルビーの産出あるいは輸入はなく、宝石による装身は未発達のままだったと思う。見に行く機会がなかったが、韓国国宝展には古墳出土の金製の王冠が展示されていたと聞く。韓国での光り物の歴史はどうだったのか。

('02/08/07)