ポリエチレン開発秘話


6月はなぜか同窓会のシーズンである。同窓会では昔話に花が咲く。中には、ぜひ後世に語り継ぎたいと思う物語もある。吉田徹郎氏の「ポリエチレン(PE)を思う−」はその一つであった。以下氏のお許しを得て要諦を記す。多少私見も交えてある点は、お許し願おう。私は以下に出てくるPE研究の直系ではないが、戦中から今日まで綿々と続いているその研究から多大の恩恵を被った1人である。その会社は生産拠点を海外にも分散し、合併もやって、今や世界トップランクのPE業者になっている。技術に関しては、「継続こそ力なり」である。
二次大戦の大勢を決めたのはレーダーと航空機の優劣である。レーダーは高周波絶縁材料が命である。日本はアメリカの本土爆撃機B-29を撃墜し、電線メーカーが分析して、それが高純度PEであると初めて知った。今ではPEの製造法には色々あるが、当時は唯一ICI社の超高圧法が知られていただけである。彼らが工業化に成功したのが昭和9年、戦中に京大で始まった海軍の依頼研究より10年も前である。ドイツのレーダーのノウ・ハウを入れて試作品を久我山の高射砲陣地に設置したのが敗戦1ヶ月前という。航空機の問題はガソリン・タンクの内張りゴムであった。内張りゴムのないタンクは被弾で簡単に燃え上がる。これは耐油性合成ゴム−ニトリルゴム(NBR)−の製造に掛かっていた。NBRについてはここでは述べない。
連合軍にレーダー装置があると知ったのは、開戦直後のシンガポール占領のときだった。皮肉にも八木アンテナという日本人開発の技術を用いていた。光学装置以外の索敵設備があると疑いを持ったのは開戦直前で、連合軍戦艦の構造からだという。日本はレーダーを見知ってから試作品に漕ぎ着けるまでに4年以上掛かった。私は、日本の軍上層部の電波兵器技術開発方針は、殺人光線に執着していたと記されていた本を見たことがある。大きなパラボラアンテナで電波を飛行機に集中し、エンジンを焼き搭乗員を殺傷するものという。飛行機を電子レンジに入れてチンをやる。これも結局試作程度に終わったと聞いた。開発戦略段階でも負けていたと言わざるを得ない。
その会社は、戦後も大学の研究支援を続けながら、ICI社からの技術導入でPEの製造に着手した。高分子化学は化学の中では当時新興の分野であったから、その頃の学問レベルの立ち後れは甚だしかったろう。中でも製造技術に直結した深刻な問題は、恐らく分子量調節であったろう。その素反応機構が発表されたのが、フローリの名著「高分子化学」によれば1937である。情報途絶の中で、戦中PEに合成ゴムに挑戦した研究者は、ある時は水飴状の、ある時は材木状の重合品を得て、その制御に苦しめられたのではないかと、私は別の重合研究に携わった人たちの述懐から想像している。技術導入は化学の立場からも当然であっただろう。
何しろ超高圧の製造装置である。日本の経験は、当時はアンモニア合成の300気圧止まりであったから、設備を輸入せねばならぬ。その最大の障害になったのが高圧ガス取締法であったという。超高圧を高圧で縛るからである。機械設計法として30年は遅れていたらしい。実は私もそれに類似の苦い経験がある。私の場合は深冷分離装置であった。超高圧装置の場合と同様に深冷分離装置の場合も、日本の法律による計算では輸入装置は容器壁の肉厚が足りない場合が出たのである。輸入先は工学的根拠と長年の実績があるから、ただ呆れ返るばかりである。結局大臣の特認事項となり、追って法律を改正して貰ったという。
過去の延長線上にある開発方針は万人に納得されやすい。二次大戦時代の兵器開発について云えば、戦艦大和は巨砲巨艦主義の究極であると言う意味でその好例である。大和魂発揮とばかり、防御を犠牲にした高速軽快の戦闘機・零戦もその中に含まれよう。航続距離の長い酸素魚雷もその一つである。素人わかりのする開発もそうだ。殺人光線などいい例だ。それに反して非常識に挑戦する開発は賛成を得にくいものである。意思決定が行政官的立場で行われるほど通りにくい。将来の命運を掛ける決定にいかなる人が関わり合うかは、最重要戦略と言えるのであろう。非常識に挑戦して成功を収めた経験がその人に必要だ。博士号はその一般的な証明であることを注記しておこう。このパラグラフは私見である。念のため。

('02/06/15)