技術官僚


毎日新聞「理系白書」シリーズに「文系の王国」という論題があった。中央官庁では上ほど事務系がポストを占め、生涯収入で理系と文系では5千万円の差が出るという指摘であった。この新藤宗幸:「技術官僚」、岩波新書、'02では、中央官庁のあるものは「技官の王国」だと云っている。副題がその権力と病理となっている。なんだか逆説的で面白そうと思い買ってみた。著者は法系、私は理系である。
「権力と病理」の実例として、まず農水省、国土交通省の土木公共事業がなぜ停まらないかを検証している。読んで、正にパーキンソンの第1法則が導かれる事由となったパターンだと思った。平凡社の世界大百科事典によれば、パーキンソンが抽出したパターンは「@役人は常に自分の部下を増やすことを望むが、自分の競争相手を持つことは望まない。A役人は相互の利益のために仕事を作り出す。このことがまた公務員のピラミッド組織の肥大化をもたらす。」と云うことだった。
事務官と技官は程良く棲み分け、省の業務拡大に協力し合う。例えば河川局に入った技官は、生涯を河川局内で働くという閉塞性が特異だ。省の意思決定に関わる重要部署の長はほぼ事務官で占められているが、具体的立案は技官グループで行われる。事務官はそれが省益に適っている限り結論には殆ど口を挟まない。国家予算の6%と言う、先進国では例外的に飛び抜けた予算を、長期計画というお墨付きを貰った役人が、族議員と協力して、国家財政の窮乏などお構いなしに毎年分捕って行く。地方ではこの長期計画のおかげで、公共事業の受け皿企業が重要な産業となっている。
次ぎに「なぜHIV薬害事件はおきたのか」という題で、血友病患者の非加熱血液凝固剤によるエイズ発症を防げなかった理由を追及している。非加熱剤を禁止し加熱剤に直せば悲惨な事件にならなかったのに、アメリカではとっくに実行していたのに、科学的論拠は十分発表されていたのに、日本の科学者達もそれを理解していたのに、厚生省は非加熱剤の流通を停めようとしなかった。担当部署は厚生省薬務局生物製剤課である。エイズ裁判で被告側は、薬害規制は厚生省全体で行うもので、1生物製剤課長の権限だけで行えるものではないと反論している。
生物製剤課長は規制すべきだと思ったときもあった、しかし他の部署は彼からはuntouchableな存在で、気付いてくれるまで「啼くまで待とうホトトギス」だったと言う。明日に死を控えた血友病の患者から見れば、なんとも堪らぬ弁明であろう。私は現役時代に「官庁は完全に縦割りで、一つの許可を頂くためには、関連部署には、それが主管部署のお隣であっても、全く同じ説明申請陳情を、時には違う部署間の調整まで含めて、繰り返さねばならぬ」と聞いていた。民間ならそれでもやるが、庁内の人である彼は隣の部署を動かすような、棲み分けに反する行動は取り得なかったというのであろう。最大手のミドリ十字が薬務局の有力な天下り先であったのも不運であった。ミドリ十字に損害を出させぬようにと云う配慮がありありと見出せる。
ではいかにして「技官の王国」を改革するのか。最終章に数々の提案が為されている。この本のように纏まった姿ではないが、提案個々はいずれも何処かでマスコミが流した内容と思う。その中で、幹部公務員の政治参加は目新しい。これは伝え聞くアメリカ行政府の組織法にヒントを得ているのではないだろうか。アメリカでは大統領が替わると、課長職以上は総入れ替えになると聞く。なぜなら新大統領が手腕を発揮するには、決定権を有するポストとの間に風通しの良さが求められるからだ。確かに、日本がそうなれば、アメリカのようなダイナミックな行政が出来るようになるかも知れぬ。
しかし、現状の日本にその組織法だけを採用することは不可能である。たちまち与党議員の利権対象(今でも結構その傾向があると言うが)になって、収拾のつかぬ状態になるのが落ちだ。この本には書いてはないが、幹部公務員が、首相に忠誠心を発揮せねば、居場所を失うシステムが必要である。そのためにはアメリカの大統領制度に近づかざるを得ない。首相公選制を敷き、実質上与党議員だけで選ばれていた首相を国民の直接選挙に持って行く。更に、首相が与野党の揚げ足取りでひっくり返らぬシステムが必要だ。強大権限には不安が付きまとうが、私はそろそろ日本人は自分の民主主義に自信を持っていいと思っている。ただ今までのお客様型民主主義から、参画型民主主義に脱皮しようという決心が必要だ。昨今の情勢を判断するとその時期が熟してきたと思うがいかが。
技術官僚というが、今や彼らは高度の科学・技術的専門性をそなえた専門職職員(プロフェッション)ではなく、技術の衣をまとった行政官であることが、技術判断を硬直化し、事業の継続に固執し、業界行政に精を出す結果になると著者は論難している。私も昔、民間会社で、ほんの僅かな間だが、担当者として技術行政官的な立場に置かれたときがあった。経験してきた分野については専門家であるが、それ以外の大多数の分野については、技術の一般的理解力が高い程度の行政官であることはすぐに自覚できた。担当者よりは遙かに広く対応せねばならない上司は、「議論が分かれたときは、(専門分野の)成功経験者を信じる以外ない」と云っていた。
技術官僚も基本のところは異なるはずがないと思う。私の勤めた民間会社は今も世界に互して立派にやっている。著者の技官に対する論難は、当を得たものだろうか? むしろ問題は彼らを縛っている組織にあるのではないか? 専門は5万とある。全部を常雇いするのは不可能だ。また臨時の行政の解る専門職なんて絵に描いたモチである。技術の衣を着た行政官がやらざるを得ない。本書には専門職の定義はない。こんな議論になると定義がないと読むのに不安である。私の物差しの一つは、学会である。先端科学技術の理解力は、学会での発表質疑応答力と云うことで判断が付く。著者はどこらを頭に浮かべているのだろうか。
古い話で恐縮だが、森永砒素ミルク事件というのがあった。確か一審の判決では工場長は事務系だから無罪、副工場長は技術系だから有罪というのであった。砒素が有毒であることは、江戸時代の岩見銀山猫いらず以来町民の間でも熟知されている事実なのにと、記憶に残ったのである。司法を含めて官界は技術系と事務系の棲み分けを、民間会社にも当然の常識として当てはめたのであったろう。エイズ事件ほどの大事件でも、直属の薬務局長(事務系)も次長(薬学系)も、棲む場所が違うと云わんばかりの証言に終始したようだ。ポストはある。だがそれに対応する権限と責任は何ら規定されていないと著者は指摘する。官界の責任を問われない体制は、江戸幕府以来の官の矜持を背景にした道義心忠誠心で補われていたが、今やその矜持も形だけとなった。何らかの規制監視制度がないと、野放図に私欲の好餌になる。著者の云う職掌の明文化は時代の趨勢だ。今頃そんな指摘がいるのかと驚きもする。
読んでみての感想の一つは、日本の科学力技術力が、よほどの時間遅れを経てでないと、政治行政に結びつかない組織の構造的欠陥を何とかしたいという苛立ちである。これは過去事例重視踏襲型の、科学技術革新時代にそぐわぬ旧態依然の意思決定機構への絶望でもある。首相公選制の次善策で最も現実味がある方策は、少なくとも文部科学、厚生労働、国土交通、農水などの各省のトップポストに技官を据えることだろう。その補佐役に事務官を付ければいい。技官の王国の病理が逼塞の結果だというのだから当然の結論と思う。なぜか著者はそれには触れていない。
感想のもう一つは、高禄を食み続けられるように仕上がった官業天下りピラミッドの壮大な裾野に対する驚きである。今週の週刊誌の目次から拾ってみよう。読売:日の丸衛星の開発予算500億円が食いもの、朝日:国民の「年金」食いつぶす特殊法人、現代:年収2000万円以上ウハウハ役人500人もいる! 今さらながらとは思う。類似の話は何10年も前から云われてきた。だがマスコミの批判など馬耳東風で今日に至った。やっぱり強力な権限を持つ首相府を作らねば百年河清を待つであろう。

('02/06/11)