ミツコと七人の子供たち


チェコを旅行し、帰ってからNHKアーカイブス・スペシャル「ミツコ−二つの世紀末」を見た。それ以来、ミツコの波瀾万丈の生涯を、ディレクターの脚色とか思い入れなどを除いた、史実として知っておきたいと思うようになった。ミツコとは、明治の中期に、ボヘミヤ地方に居城と広大な領地があったクーデンホーフ伯爵に嫁いだ日本女性である。国際結婚第1号だった。市立図書館にはミツコの本が結構あった。その中から最新出版のシュミット村木真寿実:「ミツコと七人の子供たち」、講談社、'01を読んだ。著者はドイツ人と結婚した伝記作家のようで、スデーデンドイツ人のクーデンホーフ伯爵一家の調査には適任である。彼女が10年から掛けたという聞き取り、資料集めは実証の重さを、十分紙背に感じさせる文章になっている。
ミツコが、オーストリア・ハンガリー帝国駐日代理公使の伯爵に見初められたのは事実であろうが、華やかな恋愛絵巻が、東京の麻布界隈で繰り広げられたのではないようだ。ミツコは、下世話な言い方をするなら、売られた花嫁である。家長権父権絶対の時代である。父は法外な対価(終生100円(≒現代価格100万円)/月)を条件に結婚を認めた。当時の小学校教師の初任給が8円、巡査が7円、高級官吏が50円だったという。結婚は認めたが、ミツコは事実上はどうあれ形式上は勘当になった。当時外国人に娘を出すことは、外聞を憚る不名誉な事件であった。ミツコは日本を離れるとき親の見送りを受けなかったようだし、ヨーロッパへ訊ねてくる親戚もなかった。望郷の念を物語る証言や資料は多いが、ついに一度も日本に帰らなかった。本当は帰るべき故郷がなかったようだ。
伯爵が47歳で急死したとき、ミツコは31歳であった。一番上の長男が13歳の、7人の子持ちであった。ミツコはそれ以降、伯爵の人形として振る舞っておればよかった立場から、長男が成人して跡を継ぐまで、女城主として多難な立場を切り盛りする。再婚もせずに女盛りを打ち込んだ努力は、しかし、報われたようではなかった。一次大戦、敗戦、オーストリア・ハンガリー帝国解体等はどれも伯爵家を傾ける原因になった。時代が悪かったのである。子供たちは成人後相次いで離反し、最後は経済的にも豊かでない、おそらく失意の病床で死んだ。長男が母に宛てた手紙に、アジア的だとか野蛮なと言う非難が出てくるほど、両者の衝突は激しかったようだ。その彼に晩年は経済的に頼らざるを得なかったようだが、嫁とは折り合いが悪く、意地悪い仕打ちを受けていたそうだ。
ただ次女は、大学にも行かず社交界にも出ず結婚もせず、脳卒中で倒れて以来、半身不自由な母を16年間も看続けた。彼女は「おばかさん」というあざなで、お人好しで忍耐強かったという。次女以外の子供たちは、あるいは次女も心中はそうであったのかも知れないが、母の日本型の習慣や教育、哲学には反発したり無視沈黙したが、母の人生に向き合う姿勢はきっちり受け止めて、それぞれに気丈夫に生真面目に、ヒットラーの台頭から敗戦、それに続く困難な時代を乗り越えたようだ。ミツコは当時の日本の良家の子女としての教養のほかは、三味線に義太夫の趣味程度しか教育を受けていなかったようだから、中学校以降は子供に通用しなかったのであろう。次男は欧州共同体ECの土台を築いたパン・ヨーロッパ運動の創始者でアメリカ亡命、四男は長命で著述家、長女は首相秘書官からフランスに亡命、三女はその筋では有名なカトリック作家、7人中3人までが博士号を持つ。伯爵自身も博士であった。ミツコは、離反していったとは言え我が子の成長には満足であったろう。その四男は他界前に訪日したとき、母の孤独感、寂寥感に思いを馳せている。親子だなあと感じさせる。
NHKアーカイブスでは、伯爵家の城は取り壊されると云っていた。10数年前の報告である。だが、この本ではドイツとチェコが協力して再建の寄付集めをしているとある。城は遺品の博物館にも、次男が生涯をかけた仕事「パン・ヨーロッパ」運動の記念センターにもなるようだ。最近買った「JTBのポケットガイド131 ハンガリー・チェコ」、JTB、'01にミツコの城というコラムがあって、お城が修復工事中だと記載されていた。でもその村に住んでいるのは、かってのゲルマン系のボヘミアンではなく、戦後彼等を追い出したチェコ語族の人たちである。二次大戦が終わった直後からドイツ語族に対する迫害が始まり、300万人が追われてドイツへ難民として逃げ込んだ。チェコの現在の総人口は1千万である。なんと割合の大きな事。難民の中には長男も次女もいた。その100万人は逃避行の途中で死んだ。チェコ側の暴行略奪殺害の証言には迫力がある。ゲルマン系の人々は13世紀頃にはボヘミアに進出していたと云うから、スラブ系の暴走は民族浄化以外の何者でもない。ドイツがナチスの犯罪を懸命に償おうとしているのに、ボヘミヤの民族浄化は知らぬ顔では通らないと著者は云っている。
NHKアーカイブスでは次女のお墓を写し出していた。彼女はドイツ政府の生活扶助だけで晩年を送ったらしい。家族親類との交流もなく、母よりももっと寂しい人生だった。だが、人柄の良さ優しさには何人もの述懐がある。同じ様な身の上の人たちがお金を集めて建てた墓だという。伯爵令嬢という称号が付いていた。彼女の唯一の心の拠り所であったのだろうと思うと哀れでならぬ。そのお墓が、この本によると、消滅して墓銘は削られ、別人の墓に再生されたという。NHKアーカイブスではミツコの夫の墓も、村の新住民の墓地とするために、潰される運命にあると報じていた。日本でも子孫が途絶えてお守りをする人がいなくなると、墓石は集められて無縁仏になる。それはしかし、苔むし風化して刻まれた墓銘が判読できぬようになってからだ。縁者の参詣が無くても、例えば、幕末の長崎のロシア人の墓のように、歴史の証人として大切に保存する場合もある。これは長崎ぶらぶら節を聞いたときに思い出させてくれた。ヨーロッパでの墓に対する感覚は、我々とは微妙に違うらしい。

('02/05/27)