ホンモノの日本語を話していますか?


最近国語に関する著作が目立つ。日本語の乱れも一時の流行とばかりは云えなくなり、日本人が日本語できちんとコミュニケーション出来なくなるのではないかという恐れも、全くの杞憂ではなくなってきたようだし、国際化のために、国語の時間を削って、英語教育に当てようと云う議論も気になる。まずは国語学の泰斗のお説をと思い、金田一春彦:「ホンモノの日本語を話していますか?」、角川oneテーマ21、'01を読んだ。外国語との比較がふんだんに出てくる、肩の凝らない楽しい本である。
私は現役時代には、書いてなんぼの立場ではなかったが、結構(屁)理屈を色々書いたし、書かされもした。その経験で云うと、中学校で聞いた英語の先生の日本語批判、「日本語は曖昧」、は当たっていない。無審査なら書き殴って出せばいいが、権威が高い雑誌ほど怖い審査委員がいて、どうとでも、どちらでも取れるような「曖昧」を理系では許さない。世界で引用できることが立前であるからだ。大陸国より島国、多民族国家より単一民族国家、大国より小国、国より村、村より家族とどんどん単位が小さく単純になり、互いに深く知り合う関係になると、仕舞いには「あ・うん」で済ませられる仲になる。私の英語の先生は、島国、単一言語国家段階の時代の、文系の世界で十分であった日本語を、比較対象としていたと思う。
日本では、ませた子ならもう幼稚園時代から、仮名と数字で、思いのままに自分を表現できる。ところが英語圏ではそうはいかない。先ず文字。日本語なら発音はたったの112だが、英語ではその300倍はあると言う。音を単語と切り離せないから、丸ごと単語の書き順を覚える以外手がない。(我々の漢字暗記と同じなのかな)。小学校を卒業しなければ、全部の発音を書き分けられないと云う。日本に文盲が早くから皆無であったのもこの理由による。ワープロ、パソコンを、音だけで操作できるのも素晴らしい。英語なら、何万語かをきっちり覚えていないと出来ないのだから。もっとも日本語では、同音異義の言葉を選択せねばならぬ。今日では、文脈からこれをシステムが、かなり推定してくれるようになった。英語では、スペル・チェック機能の充実したソフトが使われるようになった。パソコン屋に行くと、音声入力のソフトが売られているが、音数の少ない日本語で始めて実用化できたもののようだ。
次は数字の問題。先日何十年ぶりかでヨーロッパに旅した。どの店でも大きな電卓を店員が持っていて、計算を間違えなくなった。しかしお釣りは、相変わらず小さい貨幣から渡してくる。昔は大変だったのである。日本人はあっという間に暗算できるが、彼等にはちょっとした足し算、引き算、まして掛け算が容易には出来ない人が多かった。その割りに頑固に自己主張するから、手間取って仕方がなかった。理由は簡単、日本は完全な10進法だが、彼等には、10進法の他に根強く、12進法と60進法が数字の読み方に残っているためである。例えばフランス語では、72は60+12と言い、60も12も日本語のように10が6つとか、10に2を足すと言う発想ではなく、独立の数字なのだ。だから九九なんて無いんだそうだ。電卓は日本人の発明である。日本人はこれを算盤に置き換えただけだが、ヨーロッパ人が受けた恩恵は計り知れぬものがあったはずだと私は思う。
「男はつらいよ」シリーズに「夕焼け小焼け」という副題の寅さん映画がある。私は長い間夕焼けは解るが、小焼けは何を指すのだろうと思っていた。日本語では七五調と言って、七音とか五音は調子がいいから、つい付け足してしまう結果で、この場合は夕焼けをちょっと強調しただけだと金田一先生は云う。「愛想も小想も」「大寒小寒」「高手小手」の例も同じ系列らしい。「感謝感激」もそうだろう。「二十四の瞳」で、村の子が大石先生をはやし立てるのに、「大石小石」と声を揃えるのも同じ理由だろう。日本語は七五調を好む。最近の歌は七五調もなく、六四調もなく、ただダラダラと長いだけだ。だから全く覚えられず、すぐに忘れられてしまう・・と言う著者の説明には同感である。
金田一先生は、京都の大学で講師をなさっていた時代があったという。そこで発見したのが、雨とか天気の用語は、京都が標準になっていると言うことだった。春雨とは、加茂川に霧のように降る、こぬか雨だという。新国劇「月形半平太」の「春雨じゃ、濡れて参ろう」の春雨は、霧のように周囲から押し上げてくる。だから傘を差しても無駄だと言うことで、大学の入試試験にもってこいだから、出そうと思ったが、京都の受験生ばかりいい成績になっても不味いと、取り止めたとあった。「女心と秋の空」の秋空も、京都に行かぬと移ろい易さについて合点が参らぬと書いてある。気候に関する繊細な表現は、日本語の美しさを代表する。後世まで伝えて行きたいものだ。
はっきり言わない方がいい、恩に着せるような言い方をしない、言い訳することを潔しとしない、話し下手な方が好感を持たれる、挨拶は丁寧すぎる方が好まれる、ぼかした言い方をする、日本人は察しのいい民族である、などなどこの本に述べられている日本のladies and genntlemenとしての要件は、国際化とともに、直接的自己主張の、自己誇示の表現にとって替わられそうである。また男言葉・女言葉の区別も、著者が云うように、なくなって行こう。それでも、論理を組み立てる思考手段に日本語を用いる以上は、それが食って行く手段であるから、今後ますます、国語教育の重要性が、強調されることであろう。

('02/05/04)