東欧旅行−その4 チェコ


ウィーンからプラハへの途上に、ユネスコの世界遺産になった中世の都市チェスキークルムロフがある。昼食をそこのレストランで取る。ここでも主人は日本語で愛想を撒き散らす。スープはやや塩味がきつかった。蒸しパンをポーク風味の濃厚なシチューのような煮込みと和えて出した。ポークグヤーシというのだそうだ。
現地ガイドの英語をツアー・ディレクターが日本語に直して聞かせる。町並みには中世の絵画に出てくるような雰囲気がある。石畳がとてもよく似合う。13世紀以来の建物が並ぶ。城の家臣用住宅が町の始まり。二次大戦で破壊されたが復旧した。中世には城の攻防戦争はなかった。旧市庁舎もある、こじんまりしたスヴォルノスティ広場にはペスト記念碑がある。
休憩時間を利用して家内はアンチークの店に走る。ここでは35千円程度のガーネットのブローチを買った。訪れた3国にはアンチークの店が至るところにある。アンチークのガーネットはどこでも1860-70年製だという。なぜだと聞いたが要を得なかった。城壁は町と、狭いが今は雪解け水の多い川で仕切られている。切り立つ岩山に造られた尾根に沿った長い城だ。途中の有料トイレは掃除が行き届いていた。中庭を囲む建物に、窓を描いた壁がある。左右対称の姿にするために、実際にない窓を絵にしたというわけである。町を背景にすると写真になる場所だ。
プラハに取ったホテルは新興住宅街にある。手頃の値段なのか、色んな国籍の人間が群がっている。ホテル内でも油断するなと聞かされる。夕食はバイキング方式。シチュウを薄めたようなスープが気に入って、とうとう3杯のお代わりをした。ほかはさっぱり口に合わない。次ぎ第6日。集合が9:00であったので余裕があった。我々はスーパーを目指す。ホテルから20分ほど歩いた位置にあった。そこでKarlovarska Becherovkaの500ml入り2本を買う。1本が300円ほどの養命酒ばりの薬草リキュールである。ただしアルコール度が38度と高い。前日の夕食時に試して置いた食前酒である。その後あちこちでこの酒を見た。
当日のガイドはここの文学部大学院の修士を出た学のある人(女性)のようだった。チェコ人について語り始める。チェコは昔から工業国であった。日露戦争の頃、チェコ機関銃が有名だったと思い出す。スロバキアとは民族的にごく近いスラブ族の一つだが、スロバキアは農業国で、どうしても後進的になる。アイデンテティの問題で、両国は理想的な平和的離婚をやった。ここでも近く総選挙があるらしい。チェコにもケルト、ローマの時代はあった。宗教的にはカトリックが主流だが、30年戦争の影響などでプロテスタントの影響が強かった時代もある。共産政権がかなり長かったが、それでも国民の6割は宗教を信じている。信じるとは、教会の説法を聞きに出ていると言うことだろう。昔はここらはドイツ語が第1外国語だったが、今では英語がその位置にいるようだ。
プラハ城には大統領府が置かれている。表門裏門に銃剣を付けた衛兵が立っている。結構記念写真のために並ぶ人がいるが、にこりともしない。聖ヴィート教会から黄金の小道にはいる。道は有料である。掏摸、かっぱらいの名所と化したので、その対策に取った手段だそうだ。ツアー・ディレクターもガイドも、プラハが不名誉な要注意観光地であることを何度も云って、要所要所で注意を与える。この小道の片側には小さな家が軒を並べている。昔は宮殿に仕える人たちや錬金術師の住まいになっていたところと云う。金を生み出せなかった錬金術師は、教会などの建造物の付属金具の製作などで生活していたらしい。移動式の小店が並ぶ道を下って、インド大使館前の通りを歩き、ちょっとした広場へ出る。マーラストラナ広場。その付近一帯の建物は高級住宅で、平均給与と同じくらいの家賃だそうだ。ちなみに平均所得とは月5万円ぐらい。郊外は日本と同じような広さ(70-80m2)で6千円ぐらいと聞いた。ここらは城下街である。
プラハ最古の石橋「カレル橋」でしばらく自由時間を取る。ヴァルタヴァ(モルダウ)河に掛かるこの橋は各所に大きな彫像を付けている。道脇に観光客相手の店がたくさんある。NHKアーカイブス・スペシャル「ミツコ−二つの世紀末」で、ミツコに扮する吉永小百合が、一人で歩き渡ってくる冒頭のシーンの撮影場所である。渡った先の中心は旧市街広場で、色んな時代物の建物が取り囲んでいる空間である。昔市役所であったという建物に時計台が付いている。一番上の時計は普通の時計だが、後の二つは天文の運行を示す時計のようだ。毎正時にキリスト12使徒の人形が2つの窓から顔を出す。時計の脇に骸骨がいるが、それも正時になるとパーフォーマンスを見せる。あとで自由時間になってから入ってみた。入場料30kc、手洗いが3kc。塔内にはエレベータが付いていた。塔最上部からは全方角が一望できる。
昼食はこの中心街の「大世界」なる中華料理店であった。中華料理の浸透ぶりは大したもので、レストランの看板はよく見かけるし、ハンガリーでは、ボックス型の小さい持ち帰り中華食品の店があった。遙かに昔、スターリンの像が置かれていたという丘が見通せるヴァーツラフ広場は、現在の中心地で、その前をシャンゼリエ通りが走る。ユダヤ人街は2つあって、丘に向かって右にスペイン系ユダヤ人、左にドイツ系という。我々は建物として最も古いシナゴーク(ユダヤ人教会)を持つドイツ系の町に入った。街角にユダヤ教をさす星のマークを壁に貼り付けた建物があった。ロットクリスタルというボヘミヤ・グラスやガーネットの店で解散、自由行動になった。
「ミツコ−二つの世紀末」の第5編では、ボヘミヤの侯爵夫人ミツコ(光子)の最期を看取った次女オルガが、戦後、チェコを追われ800万難民の1人としてドイツに逃れ、困窮の中で孤独のまま死んだと報じた。チェコの元領地のドイツ人墓地は整地され、チェコ人墓地に再生されると云う。現チェコ領内のドイツ人の影は中世以来のもので、もはや歴史的に拭いきれるものではなく、いたずらに人為的に消し去ろうとすればするほど、後世に災いの種を残すように思う。ユダヤ人をドイツ人に置き換えただけの愚行は願い下げにして貰いたい。美しい町に自然を見せて貰っただけ、そぐわぬ行為に思えてならない。
夕食はビア・レストランで、一同大いに盛り上がった。

('02/05/03)