東欧旅行−その2 ハンガリー


ルフトハンザの成田−ミュンヘン間空路は我々が開設第1便であった。簡単なテープカットの式典がゲート前で行われ、シャンパンが振る舞われた。飛行機は中古の中型機で、乗客の殆どは日本人であった。覚悟の上だったが、ミュンヘンまでの13時間弱は全く退屈を通り越して苦痛だった。ミュンヘンに到着したら、ブダペスト行きの便がキャンセルになっていた。ルフトハンザが用意したホテルに宿泊となる。おかげで一息つけた。翌朝早くブダペストに向けて出発。飛行機はもう一回り小型になる。我々計39人の貸し切りに近かった。飛行は約1時間だった。
観光バスはブダペスト旧市街を通って英雄広場を目指す。ドナウ川を挿んだブダという町とペストという町が合わさってブダペストになった。旧市街の、軒の高さを6Fに揃えた町並みは素晴らしい景観であった。窓下の所々に装飾の彫刻があり、石の壁を水平に何mかの等間隔で置き違えて外から平行線模様を楽しませる。彩色はなく汚れた地色のままのようだった。まず市民公園の池中に国宝級建造物のミニチュアが並ぶおとぎの城を訊ねた。万博に造ったと聞く。英雄広場は、頂に天使の像、足元にハンガリーの7つの部族の長を配した大円柱石が中心にあり、それを囲んで建国の英雄たちが建ち並ぶ広場で、10時頃にはもう観光客で一杯であった。
聖イシュトバーン大聖堂はハンガリー初代の王様の名に因み建てられた聖堂で、その右手のミイラが奥まった部屋に安置されている。係に照明の灯りを入れてもらうために、ガイドが小銭を喜捨したようだ。立派な金銀製の箱に収まっていた。ご婦人方は気味が悪いと首をすくめる。これからはずっとそうだが、聖堂にはいるときには男は脱帽させられる。ハンガリー1000年を記念して一世紀前に建てられたと言ったように思う。
ブダペストは人口200万、ハンガリー総人口1000万の20%が首都に住む。チェコもオーストリアも総人口、首都人口とも似たような数字だ。帰国後4/25日毎日朝刊にはハンガリー国会(一院制、386議席)で左派が勝ち、従来の右派に代わり大統領が社会党首相候補メジェシー元蔵相を指名するだろうと報じた。これで中欧(ハンガリー、ポーランド、チェコ)が左派で足並みを揃えたとも書かれていた。我々滞在中は選挙運動期間だったが、喧しい選挙の街頭宣伝も汚いポスターも見えなかった。見たのは首相候補の大きな写真のある大看板だけである。
ハンガリーの歴史は複雑である。ケルト人、ローマ人、マジャール人と民族が変わる。マジャール人は東洋系だ。しかし血が混じってしまって、お面相はヨーロッパ人と区別が付かない。チェコに行ったときにそこの現地ガイドは、三国それぞれ顔かたちが少し違うようなことを云ったが、我々にはなかなか区別が出来ない。ただし蒙古斑はしっかり残っているという。宗教的には自然崇拝からキリスト教になり、トルコの侵入でイスラム教が入り、またキリスト圏に戻る。キリスト教は大半がカトリックだが、プロテスタント、ギリシャ正教もある。ケルト人の遺跡にはお目にかからなかったが、ローマ人の遺跡は次の日にセンテンドレ村を見学する道中で車窓から眺められた。地中から出てきた煉瓦住居跡と小規模の円形劇場あとである。日本と違って自然神崇拝のあとは全く残っていない。ハンガリー人はどこらまでを祖先と思っているのであろう。
くさり橋を通りブダ地区にお城を訪ねる。漁夫の砦から一巡。漁夫というのはドナウ川漁業に従事する漁夫達が砦下に住んでいたからと云う。ホームレスや演奏で小銭を貰う乞食が多い。歴代の戴冠式のあったマチューシャ教会、王宮など。石造りの大きな建物を幾つも見たので、どれがどれだったか記憶がごっちゃである。
ハンガリーのトカイワインはヨーロッパ貴腐ワインの本場である。ぶどうに貴腐(ポトリティス・シネレア)菌が付き、腐敗状態になると、果皮を通じて水分が抜け、糖度がアルコール換算で18-20度にまで上昇する(野上利喜松:「フランスのワインとぶどう園」、自家出版、'81)。完熟ぶどうが適切な気温湿度に保たれる必要があるので、日本などではたまに出来るとニュースになるぐらいである。発酵すると、貴腐菌による風味が加わり、糖分の高い芳醇なデザートワインになる。これが貴腐ワインである。下町の繁華街にあるワインショップにつれて行かれ講釈を聴く。トカイ・アスーは普通発酵ワイン原液130l入り容器に、トカイ・エッセンス(これぞ真の貴腐ワイン)用果汁を取ったあとの何篭かの貴腐ブドウを潰し加え、熟成させる(「個人旅行29−オーストリア・プラハ・ブタベスト」、昭交社、'00)。最も多くて6 puttonyos(ブドウ篭の数)だと聞いた。3種を試飲させてくれた。日本産の貴腐ワインと変わらぬ高値だった。ぶどうは'93年ものがいいと言った。
ゲッレールト温泉に入る。持参の水泳パンツが役立った。パスポート、財布などの貴重品はツアー・ディレクターがまとめて預かり、それを温泉の貴重品預かりのおばさんに預けた。彼女は保管庫に納められるところまで、おばさんの行動を監視していた。なかなか念入りで責任感がある。実は貴重品を守る方策が、我々には大変問題であったのだ。チェコほどでないにせよハンガリーでも掏摸、置き引き、ひったくりは要注意と言われていたからだ。温泉は道後温泉の大衆風呂を尚大きくしたようなもの。結構泳げた。38度と36度の2種類、それにに水風呂がつく。マッサージ室とシャワー室も付属している。水泳プールは別にある。入口でおじさんにロッカールームの割り当てをして貰い、着替え、鍵を閉めてもらう。帰りはこのおじさんに小銭を渡し開けて貰う。手洗いが見付からず往生した。
夕食後ドノウ川の遊覧船に1時間ほど乗る。国会議事堂は河畔にある堂々たる建物で、他の観光建造物同様にライトアップされていた。
次の日、同じ観光バスでウィーンに向かう。途上にセンテンドレの村がある。セルビア人の村という。一番小高い丘にギリシャ正教の教会がある。小さな村落なのに、教会はここ以外にも幾つかあって、日本の農村に宗派毎のお寺が並んでいるような具合である。一帯は中世のままの佇まいである。道はあくまでも石畳だ。マルギットコバーチの美術館を見学。こぢんまりとしたその作家の小さい作品ばかりを並べた美術館で、住居あとを美術館にしたのだろうか。塑像絵画とも素朴な印象である。
ヴィシェグラードの山頂要塞と麓の居館あとをざっとトイレ休憩を兼ねて見る。トイレは30Ftとはっきり書いてある。入口のおばさんに20Ftx2を支払うとペーパータオルを持ってきてくれた。エステルゴムに大聖堂がある。城壁の上に建てられている。大聖堂とはハンガリー・カトリックの総本山の大司祭の住むところである。大きすぎて写真にならない。宝物館の財宝は立派だった。日本の社寺仏閣の宝物は、たいてい書画骨董の類で、宝石にはまず縁がない。ここのは宝石金銀で飾り立てられた調度品、司祭服など、我々の宗教感覚にそぐわない贅沢品である。紫の大理石を使った部屋が最も古いと云った。大聖堂から出てドナウ河越しにスロバキアの町を見る。ハンガリーは第一次世界大戦に敗れ、半分の国土を割譲しなければならなかった。他国民になったハンガリア人たちへの思いが伝わるようなガイドの説明であった。エステルゴムの今は6万人程度だが、昔は首都だったと聞く。
初めてなのに車窓の景色がなぜか懐かしい。ドイツ映画「未完成交響楽」('33)と重なっている。あの物語はハンガリーの伯爵令嬢とシューベルトの悲恋が主題だった。村の酒場を抜け出した伯爵令嬢を、シューベルトが"Bitte, Fraeulein!"と叫びながら、あとを追うシーンが特に印象的であった。今は春だが、あの収穫期の背景を見たのである。
Suzukiのマークの入った車がけっこう走っている。合弁会社があるそうだ。国境検問所にはトラックが長蛇の列を作っていた。厳重検査のために丸1日掛かるという。我々も待たされたが、45分でけりが付いた。2時間ぐらいは当たり前だと聞いた。ウィーンの市内を通り抜けて郊外のホテルにつく。ヨーロッパ系の大衆向けチェーン店らしい。個人で来るとツイン1室朝食付き15000円/2人・日程度のようだ。なかなか実質的に機能性高く造られている。

('02/05/03)