新発田市

- 新潟平野の雪はとっくに消えて無くなっているが、はるか東に見える高い山脈は、真っ白に雪を被ったままで、視線を上げる毎に気温以上に寒いと思ってしまう。曇り空だったが幸い雨にならなかった。4時間余りの予定で、やや古いガイドブック−「ブルーガイド パック15 越後・佐渡」、実業之日本、'87−の推薦コースを歩いた。
- 建て替え中の諏訪神社を素通りして清水園に行く。藩侯の下屋敷であったところ。書院を拝観ののち庭を巡る。清澄庭園ほどの大きさか。石の配置がよい回遊式である。池に鴨が多数羽根を休めていた。茶室は外から眺めるだけ。我々以外に観光客は来なかった。移設された米倉が資料館として利用されている。とりわけ目立つ展示品はなかった。お向かいに新発田川を挿んで建つ足軽長屋は重文である。書院に比べて造りのお粗末なこと。軒は私の頭につかえるほどに低いし、畳はへり無しだ。天井板はなく屋根裏が丸見えである。計12畳になる畳の2間と、6畳ほどの板の間、玄関及びお勝手用の土間が6畳、合計で24畳だ。加賀の足軽長屋はもう1部屋取っていたし、2軒1棟だった。ここは8軒1棟である。便所は共同だったのだろう、屋内にはない。
- 一番古いと聞いた菓子屋に立ち寄る。宮川屋という。無花果羊羹を何本かみやげに買う。イチジクを素材にした菓子は他で見たことがない。新発田出身の名士と言えば忠臣蔵の堀部安兵衛らしい。長徳寺に手植えの松がある。石碑付きで陛下皇族並である。ただし初代は枯れたので今は二代目だという。そのほか、お城の前で銅像を見たし、外ヶ輪の街案内には、安兵衛お宅跡はこのあたりと書き記されていた。神明神社のあたりは旅籠、割烹料理店が多い。曲がり角に旧紺屋町と標識が建っていた。新発田川が真っ直ぐに流れている。その畔には染物屋が多かったのであろう。今は御幸町らしい。地名など符号に過ぎぬ。それなら歴史的町名を残しておけばいいのにと残念だ。
- 新発田城の周辺は今城址公園として整備中である。自衛隊との境界に土塀風の壁を建て終わっていた。隅櫓、表門、石垣に濠は昔の本丸のままだそうだ。溝口家は外様大名であったが、秀吉に册封されて以来当地を守り通して明治まで続いた。しかも途中6万石から10万石へ高直しされている。次々に藩主が変わった隣の村上藩とはえらい違いだ。どんな歴史を刻んだのであろうか。城は平城で、城壁も高くない。本丸の規模としては10万石相当であろう。中の公開は4月から11月ということなので、門の隙間から中を覗く。塀が見えるだけで何もない。濠の周囲を巡って驚く。南面以外は濠も城壁も綺麗に整地されていて何もないのである。まあロケに使う張りぼての城よりはましという姿だ。昔、陸軍が連隊を置いたときにそうなったのだろうか。残念な歴史だ。城址公園にすると言うから、また元の城垣を作るのであろうか。
- 外ヶ輪あたりには武家屋敷の雰囲気が残っている。家屋は殆どが建て替えられているようだが、区画と一軒の広さ、それから家を取り囲む生け垣と庭木などに感じられる。外ヶ輪とは二の丸と三の丸の境界を云うらしい。真ん中にパン工場があったりしてぼつぼつ環境が壊れかかっている。なんとか規制出来ぬものか。官庁街を通り抜けて寺町へ出る。清水園の近くまで一直線に9寺を数える。昔はこの線あたりが町の外れで、一種の防衛線であったのだろう。村上の町もそうであったが、秀吉が京都でやった寺町構想はあちこちで町作りに受け継がれている。木造建築だから出来る構想である。私は勝手に寺町と書いた。しかし今はそんな町名は残っていない。溝口氏菩提寺の宝光寺は見るからに禅宗のお寺である。回廊の痛みが激しい。周囲を墓が取り囲むが、溝口家の墓所は表には見当たらなかった。
- 造り酒屋が3軒あるという。これも城下町らしい。菊水というのは元祖しぼりたてで有名だ。19度ぐらいの口当たりのいい原酒を缶入りで出している。市島酒造は道順にあったので蔵を覗いてみた。年に60kl程度の小さい酒屋だと案内人は云う。でもよく整備された見学コースだった。蔵元のお宝美術館があって、こぢんまりとしていたが結構な品が並ぶ。昔の刺繍取りの婚礼衣装が目に留まった。諏訪神社の近くなので、昔は「諏訪何とか」という商標だったが、今は王紋という。その初しぼり限定品という1瓶を買ってみた。香りのいい中辛だ。やや辛口に近い。
- 駅前で貰った観光地図に、日本海沿岸東北自動車道(平成14年開通予定)と載っていた。車窓に映った工事中の道はこれだったかどうか。だが、周囲の一般道は町中も入れて関東から来た我々には渋滞混雑のないいい道と思える。今後車が増えると予想されるのだろうか。さもなくば無駄な公共投資である。
('02/03/18)