イヴの七人の娘たち


少年の頃「コン・ティキ号探検記」を読んだ。ポリネシア人の起源が南アメリカ先住民であると信じて、ペルーから103日、8300kmを筏で漂流したヘイエルダールの航海記である。ブライアン・サイクス:「イヴの七人の娘たち」、大野晶子訳、ソニー・マガジンズ、'01はポリネシア人の起源が、ヘイエルダール説とは違って、西方のニューギニア、ソロモン諸島であることを遺伝学から解き明かす。著者の仕事のきっかけは、アルプス山中で発見されたアイスマンの遺体だそうだが、私にはコン・ティキ号の結果との対比の方が印象的だった。この本は京大学生新聞の書評を見て買い入れた。
NHKスペシアル「日本人はるかな旅」の出出しは衝撃的であった。縄文人化石から抽出したDNAが、バイカル湖畔に住むブリヤート人と酷似している。だが、今国際的ヒトゲノム・プロジェクトが、世界の遺伝子解析機関を総動員して、やっと人間の全遺伝子の解析を終える見通しを得たというレベルなのに、「酷似」とは何を指すのかという疑問が残った。著者の場合、たぶんNHKもだろうが、DNAとはミトコンドリアに含まれるそれを指す。ミトコンドリアDNAは、母系遺伝つまり母のDNAだけしか子に伝わらない特徴がある。これは祖先を探るのにもってこいの特質だ。細胞核DNAでは、遺伝子交雑により、子孫は父母両方からの要素をモザイク的に受け継いで行くから、何代も遡ることは事実上不可能である。
ミトコンドリアDNAの中に、Dループと呼ぶ塩基数500ほどの短い区画がある。何十億という人の配列全塩基数から見れば、分析に都合がいい長さである。Dループには意味のあるコードが書かれていない。だから突然変異がこのループに仕込まれても、生体は無傷のまま次の世代へこの変異を引き継いで行く。生体機能に関係する区画であれば、生まれた子は大抵生き延びられない。突然変異が入る速度は、考古学との対応関係や、突然変異の経過段階と言える新旧配列共存分布状態から推定できる。母方の歴史を辿るのに、これほど適切な直接的方法はない。1万年に1度という突然変異の出現頻度は、ホモ・サピエンスの旧石器時代以来の歴史の解明に好適であった。
方法論が明解に提示されている本である。この方法論にもいくつかの弱点があった。「第11章 不愉快な出来事」には論敵とインターナショナルに渡り合った苦しい何年間かを纏めている。私は親の書棚にあったのが縁で考古学には興味を持ち続け、今も博物館や展示会などに通う。だが、こんなに方法論に深入りして説明してくれるケースは希である。質問しても大抵はぐらかされる。この著書、この論文を見よといってくれた場合もない。世界に通用しているのかなと時折思う。
ミトコンドリアとは細胞小器官の一つで、酸素呼吸代謝を行っているところである。中村運:「生命の進化 40億年の風景」、化学同人、'94の第6章は細胞進化を扱っている。原核細胞から真核細胞へ進化したのは20億年から昔の話らしい。祖先をラン藻とする膜進化説が有力だと書いてある。原核段階では細胞内で裸のDNAが、細胞膜とくっつき切断分離し、膜で覆われたDNA体になったという。20億年では遠すぎるからDループでは無理だが、機能を持つDNA区分なら突然変異の出現間隔は遙かに長いはずだから、それから細胞時代からの進化の歴史が分かるかも知れないと思うと愉快である。
旧人類のネアンデルタール人は、新人類ホモ・サピエンスであるクロマニヨン人と1万5千年も共存したという。だったら合いの子が出来ていても不思議ではないのに、DNA的には25万年前にたもとを分かったと言う結果だった。25万年前とは旧人類しかおらなかった時代である。共存の時には交雑はあったろう。しかし旧人類と新人類は染色体的にはロバと馬の関係だったと著者は推論する。ロバと馬はラバを生むが、ラバは子を作らない。染色体数が1本違うからだ。類人猿も我々より1本染色体数が多い。旧人類は類人猿の染色体数であったのではないかと言うのだ。まだ証明はない。しかし新人類アフリカ起源説の、も一つもやもやしたところを単純明朗に説明している。
この本の半分は、SF小説的に、ヨーロッパ人の起源を描いている。新人類の祖アダムとイヴは10万年以上昔アフリカに生まれた。イヴの子孫達が4.5万年前に中近東からヨーロッパに進出する様子を、突然変異の特徴と出現の地域分布状態を頼りに辿る。現代ヨーロッパ人の母になったのはたった7人である。ちなみにY染色体からもたらされたアダムの系統は11人だそうだ。父系遺伝はY染色体を辿れば判る。ミトコンドリアDNA Dループ研究に刺激されて行われた研究の結果である。母は、古い方から6人までは、狩猟採集の生活だった。最後の母は、1万年前に農耕を武器に子孫を拡散させる。しかし日本における弥生人と縄文人との関係とは違って、この末っ子の系統は全体の20%程度を占める程度だという。物語は更に全地球規模の新人類移動にも及んでいる。ただ、ヨーロッパほどのデータはないので、その証明は後日の発見や研究に待たねばならぬところが大きい。
祖先が7人とか11人とかは、ちょっと数が少なすぎて奇異に思えるかもしてない。本当はもっと多いはずだが、娘を作らなければ途絶えるのが母系遺伝の宿命であり、息子を作らなければ途絶えるのが男系遺伝であることを考えれば不思議ではない。新しい系列の集団は拡散していないだけ、疫病災害などによって途絶える確率は高かっただろう。
なかなか読ませる気宇壮大と言える本であった。お薦めの一冊である。

('02/03/04)