隼人の古代史


昭和30年夏国鉄の急行日本海号で京都を発った。夜が明けてから青森に着くまでの間、耳に聞こえる土地の言葉は、北に進むにつれて固有名詞以外は理解できなくなった。一昨年沖縄を訪れた。首里城址脇の県立博物館で熱心に話す人々の言葉に耳を傾けた。全く判らなかった。訊ねたら、与那城村の離れ小島の人々のようであった。でもアイヌ語と違い東北弁も沖縄弁も日本語である。東北弁はズーズーに注意しながら文字にすれば判るはずだ。沖縄弁は単語の対応と母音の転換(「アイウエオ」が「アイウイウ」になる−比嘉政夫:第218回歴博講演会「琉球列島の民俗学」資料)に注意すればなんとか判ると、何かの解説書に書いてあった。私が東北や南九州、南西諸島の文化に惹かれるのは、それらが身内で、もう少しで手が届きそうな、だが未知な存在であるためだろうと思う。アイヌ文化となると、同じ縄文の末裔だというのに、ちょっと関心が薄くなる。
NHK「日本人はるかな旅」では縄文人=土着人のメインルーツとして、北方民族が上がっていた。バイカル湖畔のブリヤート人と同根だと言う。フライアン・サイクス:「イヴの七人の娘たち」、大野晶子訳、ソニーマガジンズ、'01にもルーツが、大半はシベリア・バイカル湖の周辺にたどり着くとある。アイヌと沖縄人は南下の途中12000年ほど昔に別れたとも書かれていた。こんなに昔では文化的繋がりは絶えてしまうのだろう。「日本人はるかな旅」では弥生人=渡来人の急激な侵攻は西日本の土着人を圧倒したが、東日本では進出が鈍り融合同化が進んだと説く。遺伝子的には渡来人の多くは北中国ルーツだという。東日本は西日本よりは構図は簡単だ。地続きで2民族間の抗争がじわじわと北へ移動する姿である。西は複雑である。西日本特に南九州や沖縄には、縄文人の時代より南方海洋民族の文明の跡が残っているし、水稲を持ち込んだ揚子江民は、文明の形成上は影響甚大だった。
中村明蔵:「隼人の古代史」、平凡社新書、'01は、考古学が頼りの有史以前から平安中期の延喜式に見える職掌・隼人司の実態の解明あたりまでを描いている。国造り神話も解説の対象である。舞台は、南西諸島も時折は顔を出すが、主に南九州のシラス台地つまり今の鹿児島県、当時の大隅国と薩摩国、である。そこが古事記・日本書紀に云う熊襲・隼人の居住区であった。神話に名高い日向地方は早くから公民化されたことが、古墳の作りからも推察できるという。シラス台地とは、火山灰の堆積地で現在も水田の少ない地方だという。水稲耕作による圧倒的な経済力を背景に進出を果たした渡来人も肥後、日向あたりで歩みが停まってしまったのだろう。律令国家体制になって大和政権は国家として南に北に支配域を拡張する意欲を燃やした。手段としては異族の慰撫同化である。当初はヤマトタケルノミコトの神話が物語るように、力による征服であったに違いない。
叛乱が相次いだ。だから九州は8世紀初頭頃は9国ではなく7国だった。熊襲の国はまだ勘定に入らなかった。7番目の国日向から薩摩、大隅が別れ国家に編入されて行くのである。国府には豊前、肥後から200戸づつの移民を行い、隼人の慰撫宣化と班田制を開始した。5000人程度だそうだ。戸とは複数家族の集合体で24-5人の大人数になる。壮丁を兵隊に1人出せる単位だから200人の屯田軍を常備しているわけだ。いざとなれば、残りの壮丁に年少者老年者を加えて、1000人ほどの軍隊に出来る人数である。
隼人側の人口は判らない。速水融:「歴史人口学で見た日本」、文春新書、'01には縄文時代の日本の人口は40-50万とある。そのままの狩猟採取生活なら隼人は両国を合わせてもせいぜい15000人程度の筈だ。縄文時代と違い、少しは農業が普及していようから、その倍以上はおっただろう。またこの本は奈良朝時代の人口が560万という推計を紹介している。560万から、当時の68ヶ国に税金の重みを付けて、大隅国及び薩摩国に人口を割り振ると、各々は6万人になる。しかし両国だけは特例で税金は8世紀半ばでも格付け(中国)本来の1/5である。だから極端に貧しかったか、実人口が格付けに合わないほど少なかったか、あるいは不服従意識が強かったかだ。屯田軍が組織されていたはずの720年に、隼人が背いて国守を殺す事件が起こった。派遣された朝廷軍は1万人ほどであったという。だったら、隼人軍は、大隅国だけだが、ありったけの動員をかけて数千人程度か。だから私は隼人の人口は1国3万人と考える。大隅国には8郡が置かれた。大体1郡が1豪族に対応するのだそうだ。だったら有力豪族でも支配が及ぶ範囲は5000人程度だろう。移民200戸はそれに見合う人数であるから、常備軍としての最低の線は備えていたことになる。
遅々として進まぬ水田耕作ないしは農業経営を正税・公廨稲の大きさで示している。820年でも隣の肥後、日向が各40万束づつ、15万束づつであるのに対し大隅、薩摩は各6万束づつである。しかもそれぞれの国分寺料(運営経費)のかなりを肥後、日向に頼っている。中央より1世紀は遅れたが、それでも律令政治の基本になる班田制が行き渡り、異族・隼人の「朝貢」は9世紀に入って中止された。同化の証であろう。延喜式には二国の神名が7柱載っている。どのお社も現在に伝えられているという。もとは火山などを崇めた自然信仰のようだが、それに朝廷支配域の別神が勧請されて、在地神と習合されていった。異族の支配に宗教を乗っ取る政策は、洋の東西を問わず行われた定法らしい。
屋久島、種子島は7世紀初頭頃から認識され初め、9世紀初めには大隅国に併合された。南島の朝貢圏は715年には奄美、石垣島、久米島に及んでいるという。石垣島は現在日本最南端の八重山諸島の主島である。記録された琉球諸島との交流の最初だろう。
今東京から隼人の里・鹿児島県を巡るツアーは、安いのでは、3泊4日で3万円ほどである。既に何度か訪れているが、また行ってみたい。

('02/02/13)