
- この夏に男鹿半島を海岸伝いにバス旅行したとき、ガイドが最近まで丸木舟が使われていたと紹介した。その丸木舟の実物が船の科学館に展示されてあった。スギの大木をくり抜いた長さ10mほどの堂々たる丸木舟であった。横には下北半島の同様の丸木舟が並んでいた。「日本人はるかな旅展」で京都の舞鶴地方から出土した縄文時代の丸木舟を見た。黒潮圏の先史文化の証として展示されたものであった。あれから2000年を越してなお生き続けた丸木舟もFRP製の軽くて強い船に城を明け渡す時が来ているようだった。今は3-4隻を数えるのみとラベルの説明にあった。
- 和船の精巧な再現模型が並んでいる。江戸期の国内航路には2000石に近い帆船も行き来していたようだ。順風でなくても横風帆走する航行術を既にマスターしていた。有名な北前船には北海道から一挙に瀬戸内海入口の下関に直行する、佐渡島隠岐の島の外を回る直線海路も開発されていた。菱垣廻船による安治川口から浦賀までのスピード・レース−新綿番船−の解説は面白かった。幕末には平均速度7ノットと言う記録が出たという。現在の豪華客船の巡航速度が16-7ノットだろうから大したものだ。
- 熊本藩船停泊地と言った意味の石碑が大分鶴崎の旧大野川河口の岸壁に建っていたのを記憶する。そのあたりは熊本藩の飛び領地であった。鶴崎踊りは藩侯の無聊を慰める目的で始まったと聞いたように思う。その熊本藩の御座船を中心とする船団が鶴崎にもやっている風景が描かれた絵馬(であったか)を見た。御座船は贅を尽くした藩侯専用の豪華客船である。多分瀬戸内海航路用で、大阪−江戸間は大名行列を仕立てたのであろう。関ヶ原の合戦に敗れ伊豆八丈島の流人になった宇喜多秀家に、側を通ったさる西国大名が酒を贈った話は小説だけのものかもしれないが、幕末に島津藩が江戸を退去するのに藩汽船を使ったのは史実らしい。ともかく東京湾に西国大名が船を回すことは皆無ではなかったろうが、荒波の太平洋不安全航路を平和時に藩主を乗せて航海したとは思えない。ともあれかっての勤務地に纏わる展示は特別の関心を呼ぶ。
- 球状船首はわが国の大発明である。では造波抵抗をどれほど減らしてくれるのだろう。クルーズで知り合った船長さんは球状船首がない場合より1割ほどは減るのではないかと云っていた。科学館で質問したら士官服の専門館員と言う人を引き合わせてくれたが、理想的にはゼロになるはずと云うだけだった。この疑問に回答を貰うことが今回の訪問目的の一つであったからちょっと残念であった。もう一つの目的であった総トン数と排水量の関係についても全くデータを貰えなかった。軍艦は排水量表示で商船は総トン数表示だから比較できないのである。戦艦大和はクイーンエリザベス号より大きいか小さいかなんて暇な問題を考える人には必要なのだ。この科学館で唯一判ったのは宗谷が総トン数2736トン、満載排水量4614.4トンと言うことだった。宗谷はもともと砕氷船だから軍艦に近いだろう。商船では総トン数に対する排水量の比はもっと小さいはずだ。係留されている宗谷はほんとに小さい。あんな小船で南極観測に出掛けた先人の勇気に感心する。
- 青函連絡船には40年以上昔に一度乗ったことがある。夏、函館で何かの博覧会が催されていた頃だった。旧青函連絡船羊蹄丸の中の、実寸大の人形が語りかけてくる青函ワールドは、昭和30年代を念頭に置いて製作されたものという。私が通過した頃である。りんご市場のおじさんおばさん、青森駅の担ぎ屋さんなど、展示の人形を見ながら過去を振り返った。残念ながらその土地に働く人々の記憶は微かである。今年の夏に訪れた青森を振り返って、あれから半世紀も過ぎていないのに、なんと人々はスマートで小綺麗な洋装に変わったことだろうと思う。
- 連れてくるなら小学生中学年以上だと思った。楽しみ方は色々あるから、幼稚園児には全く不適切というのではないが、真っ当な理解には少々基礎が要る。ボートを漕いだこともない内陸の子は特にそうだろう。
('01/12/01)