
- 向田邦子脚本のテレビ・ドラマ「あ・うん」「続あ・うん」をNHK BS11の再放送で見た。幸いに映画の「あ・うん」のビデオも買い置いてあったので見直した。昭和10年頃からせいぜい昭和15年頃までの小市民の生活を活写している。何度見ても面白い。傑作だと思う。二次大戦を境に我々は精神構造まで変わった。和魂洋才から洋魂洋才へと言おうか。この時代の変わり目が劇的であっただけ、跨って生きてきたものにとって、つい先日のお隣の一角と錯覚を起こしそうな映像はなんとも懐かしいものである。喜劇風に明るく軽快に話題が進むのがいい。
- テレビ・ドラマでは「あ・うん」が「こまいぬ」「蝶々」「青りんご」「弥次郎兵衛」の4部、「続あ・うん」が「恋」「四角い帽子」「芋俵」「実らぬ実」「送別」の5部の、なかなかの大作である。映画では、それを時間的に1/3から1/4に縮めているのだから当然だが、だいぶエピソードの簡略化省略合一化が行われている。テレビでの祖父と大叔父に纏わる事件が一切省かれ、またお見合い相手と恋人を同一人物に簡素化している。お妾はテレビでは2号3号の2人だが、映画では1人にしてしまった。母の妊娠もなくなってしまった。しかし面白い場面は映画でもたっぷり丹念に撮影している。芸者遊びのシーンや妾と本妻がかち合うシーン、娘の心中書き置きと勘違いして父母が鬼怒川温泉に急行し、逆に番頭に不倫の仲と疑われるシーン、最後の出征する恋人を娘が追っかけるシーンなどは共通でなかなか見せてくれる。
- 水田家の父、母、娘と親友の角倉夫妻の交際を軸にする軽妙な家庭劇である。父母は円満な夫婦、角倉のおじさんと父は陸軍で生死を共にした寝台戦友、その角倉が母に抱く慕情の行方を娘から眺めた、曰く言い難しの「あ・うん」の風景として描いている。この時代には立場とか分限とか身分に対する「らしさ」とか「型」「姿勢」が要望された。男らしさ、女らしさ、夫らしさ、妻らしさ、娘らしさ、社長らしさ、課長らしさ、妾らしさ、女給らしさ、芸者らしさ、職人らしさ。この風潮は昭和30年代頃でもかなり残っていて、学校でも社会でも微妙に違う立場相応の礼儀作法に無頓着ではおれなかったし、例えば、汽車は1等、船は特等の出張旅費が出る人がそれ以下の等級で旅行をしたのがバレて、顰蹙を買ったというように格相当の振る舞いが必要だった。戦前はもっとそれが厳格であった。だからドラマの枠組みが分かると登場人物の取るべき演技姿勢の大枠が決まるので、あとは演出家が自在に組み立てられる仕組みになっている。戦後が舞台ではこの枠組みをはみ出す人が主題になったりして安堵して見られなくなる。
- 配役はテレビも映画も豪華である。父は前者にフランキー堺、後者に板東英二、母は吉村実子と富司純子、娘は岸本加世子と富田靖子、角倉に杉浦直樹と高倉健、角倉のおばさんに岸田今日子と山口美江で、いずれ劣らぬ名演技である。演出や監督もいいのだろうが、俳優達も自身の生活体験に持っていたことが、これらの名場面を生んだ理由の一つであろう。角倉のおじさんだけは遊び馴れた格好いい男と言う意味で高倉健の方が勝っていた。脇役がまた豪勢である。映画のお妾役宮本信子のはまっていること、温泉旅館番頭の大滝秀治が刃物沙汰と取り違えるシーンは傑作だし、南京陥落祝賀提灯行列の掏摸三木のり平がすった相手にご馳走になる場面も傑作である。テレビの祖父で山師の志村喬が脳卒中で薄目を開いて昇天する様など絶品である。大叔父で多分経師屋の笠智衆が見せる所々の明治の背骨ぶりも面白い。路地の子供の遊び姿は私の幼かった頃の記憶の何処かと重なる映像で、一瞬のタイムトリップを楽しませてくれた。
- 向田邦子死後もさる民間放送が作品を組み合わせて毎年何本かドラマを放映していた。それも今年で終わりだそうだ。最後のそれには日本敗戦で海軍青年士官が切腹自殺するシーンが付いていた。室内で制帽姿で切腹するのでビックリした。もうこんな演出しかできないようになっているのなら、向田作品を打ち切るのも仕方がないと思った。
('01/11/19)