アフガン難民の受け入れ


毎日新聞の10/24朝刊の「記者の目」に「受け入れてこそ国際貢献」と題したかなり長文の主張が掲げてあった。主旨は、「金は出すが」「人は受け入れない」難民政策から、両方やる政策に転換しようというものだ。日本のUNHCR拠出金は世界第2位だが、ここ10年間の難民認定数はドイツの16万人弱に対し日本は僅か44名だと言う。困っている人を出来るだけ助けてあげたいと思うのは人間誰しも同じである。だからお説ごもっともと言いたいが、そう単純にハイよろしとは云えない。難民受け入れが将来の日本に落とす光と影は重大関心事である。もっとも憂慮すべきは悪辣な犯罪の加速であり、難民がその温床を提供する現実である。今回はこの点に絞って考えてみたい。
一々統計を引き出すまでもなく、日本は長い間世界に希な、犯罪の少ない国であった。徳川幕府成立以来二次大戦まで、明治維新の部分的な戦争を除けば、日本国内は平和を維持できていた。世界的にも希有な事実である。この背景が結果として犯罪を押し込める精神文化と社会を育んだと思っている。この伝統は戦後の混乱期も基本的には維持され、ほんの10年前まで日本は犯罪率については世界に誇れる特異な存在であった。日本式家屋には基本的には鍵がない。一旦家屋に侵入できたらあとはフリ−パスである。犯罪など起こらない前提で出来ている。そんな家屋設計が国民全体に認められていたのである。しかも秀吉の刀狩り以来の伝統が更に強化されてどの家にも武器らしい武器がない。
ドイツなどの欧米諸国ではどうか。こちらは「隙を作る方が悪い」「犯罪には自ら立ち向かえ」という思想である。ドアというドアに鍵がある。東京オリンピックの頃しばらくドイツに滞在した。敗戦国なのに銃器店ではピストルを販売している。国家単位では既に国民に兵役義務が課せられていた。アメリカで留学生が間違えて入った家で射殺された事件があった。誤殺はしかし犯罪にならなかった。日本の新聞は人種差別のような取り上げ方であったが、彼らの思想からすれば、家という聖域の闖入者に対して積極的防衛に出て何が悪いと云うところだったのだろう。このような思想に貫かれている社会なら、「隙あらばいてこましていい」文化圏からの移民も受け入れ可能である。流石にもまれにもまれた大陸国である。犯罪に対して来るなら来いの「免疫」体質である。
この数年の間の日本における犯罪数は鰻登りである。そのかなりの割合が外国人で占められている。東京の留置人員の1/4が外国人であるとは最近聞いた。外国籍の全人口に占める割合から見たらいかに外国人の犯罪が多いことか。その一方で警察の検挙率は1/3以下に下がった。治安の悪化は由々しき問題である。犯罪の国際化広域化が指摘されている。警察のそれに対する対応遅れや内部のモラル低下が指摘されている。しかしそれらはマイナーな理由である。主因は悪貨が良貨を追放しようとしている文化面の問題である。良貨とはもちろん犯罪を前提としない日本伝統の道徳文化である。悪貨は「隙あらば・・」文化である。
だが、今更過去の道徳社会を懐かしんでも詮無いことだ。拘束の多い伝統社会から自由な社会に脱皮する方向を選んだのだから、その副作用は甘んじて受けねばならぬ。人々は道徳社会前提の生き方から脱皮しつつある。安全がタダではないと認識し始めた。ドアの鍵はよりピッキングに強いものに取り替えられ、高級車には位置通知システムがつけられるようになった。ガードマン会社はウケにウケている。加害者に対する目は一段と厳しくなった。しかしまだまだ日本は犯罪天国である。おそらくそれは過去の道徳社会の体質を呼吸した世代があの世に去ってしまうまで続くだろうと思う。私は早く難民も引き受けられる開かれた社会にするためには、国民の銃火器保有の許可、警察力の思い切った増強、正当防衛範囲の拡大、自己防衛思想の徹底ぐらいは至急に実施すべきだと思う。
難民はまずは同じ系統の文化を持った同種民族の国々で引き受けるべきである。アフガン難民はイスラム教圏の10億の民のうちまずはアーリア系民族の住む国々が引き受けるべきだ。それが二次的摩擦を防ぐ最良の方法である。特に隣国は散々干渉し続けた結果ではないか。イギリス、ロシア、アメリカはアフガンの戦争による荒廃の直接の責任を負う。面倒は最後まで見るべきである。毎日新聞の記者に云いたい。難民受け入れを云うのは格好いい。だが犯罪天国のままではお断りである。とくに日本文化に同化しそうもない異相で身体強壮の人々を引き受けるのは生理的にいやだ。

('01/11/05)