千葉一族海上氏


県立中央博物館に出かけたら、丁度歴史講演会が開かれようとしていた。「千葉一族海上氏の歴史と文化」という題の歴史研究科上席研究員木村修氏の講演であった。中世に今の銚子あたりを地盤にしていた海上氏の盛衰記である。銚子市と言えば先ず頭に浮かぶのがお醤油と漁港で、昭和60年のNHK朝ドラ、沢口靖子主演「澪つくし」ですっかり有名になった。醤油工場については昔、夕方近くになり見学時間は終わっていたが頼み込んだら係の女性が工場案内をしてくれた憶えがある。もとは紀州の技術で300年からの歴史があるという。それ以前の中世の歴史は今回初めて知見を得た。「新しい歴史教科書」を見ると中学校でも東国の武士について勉強するようだが、鎌倉幕府中心で、頼朝は出てきても旗揚げを成功させた千葉常胤は出てこない。もちろん銚子の状況など全然触れてない。その意味で今回はまことにいい勉強をさせて貰った。
海上氏は千葉六党の一つ東氏の流れである。平安後期武家の勃興に合わせて千葉氏の名が歴史に現れる。平氏の流れをくむこの一族が千葉氏を名乗りだしたのは前九年の役の常将あたりで、その子は後三年の役に出征し、次の次ぎ常胤が源頼朝の挙兵に付き従い、下総の国における千葉氏の立場を盤石にする。千葉氏は秀吉の小田原攻めで後北条氏と共に滅亡し歴史から消える。海上氏も本家と運命を共にした。それが1590年で前九年の役が1051年だからほぼ500年にわたって下総一円に勢力を誇ったわけである。地方豪族で中央に進出はしなかったが、まずは長寿命の氏であった。
海上と書いて「うなかみ」と読む。今の海上郡は「かいじょう」だが、海上町は「うなかみ」である。平安後期には千葉県は荘園だらけになっていた。常胤の肩書き「千葉介」は常胤が千葉庄の地頭で郡司クラスだったことを示すのであろう。常胤は父の代から千葉城を居城にし、相馬郡司の国判を貰ったという記録がある。相馬郡は千葉県東葛飾郡と茨城県北相馬郡を合わせたぐらいの位置らしい。伝わる史実は断片的で曖昧だが、下総の半分ぐらいは実力支配していたのであろう。頼朝与力の功で千葉氏は下総国の守護の地位に昇る。海上氏は盛時は今の海上郡あたりの地頭職であったのだろう。師胤は戦国時代初期海上氏中期の当主であるが、その頃は銚子市々内の飯沼城を居城にしていた。
明月記は著名な歌人藤原定家の56巻にわたる19歳から死の直前までの日記で35年間のそれが伝わっているという。講演資料中に引用された関連記事は面白い。彼は領家としての九条家に荘園管理を任される預所の立場だ。さて預かった三崎庄にはるばる人を遣わしたが地頭がリップサービスばかりで実のある対応をしない。業を煮やして主家に差配を返上し、1年経ってから近辺の伊賀国の荘園の預所に任命される。
当時は朝廷側に荘園の本家、領家、預所などの支配体制があり幕府側に守護、地頭などの体制がある。御厨と称する社寺領がある。公領も残っていて国司、郡司などの律令制度も機能している。だが郡司以下は実質は地頭であるらしい。守護はおいおい勢力を拡大して荘園公領を蚕食して、ついに室町時代には守護大名に成長する。当時の支配体制は二重三重で地方史を読むには勉強する必要があるが、実力次第のバランスのようで、地方により時代により力関係は様々のようだ。朝廷貴族社寺側の古い体制がどんどん衰退し、武家側に移行するのは明らかである。九条家文書は今宮内庁に保管されている。その中に領地に関する記録があるという。九条家は三崎庄の領有意識はその後も続くが、実質の支配は13世紀初めの明月記記事の通りであったようだ。
講演資料の残りは殆どがお寺関係である。寄進状、棟札、経筒銘、仏像修理銘などである。外国でも中世あたりの歴史資料は宗教関係が殆どなのであろうか。いずれにせよ講演は地方豪族の当時の生き様を勉強するきっかけを作ってくれた。千葉氏本家は末期には下克上で家臣に実質の統帥権を奪われて名だけの頭目になった。支族臼井氏家臣原氏が先ず臼井氏を乗っ取り、ついで本佐倉城の千葉宗家を乗っ取った。いずれも幼少の若君を残して主君が死んだ機会を捉えている。先日の新聞で千葉氏居城であった本佐倉城が史跡として残されることとなり、佐倉市と酒々井町で土地の買収が進められているそうだ。地方史レベルの史跡がおいおい整備されてゆくのは結構なことだ。銚子市にあったお城は市の中心だから多分完全に破壊されて跡形はないだろう。秀吉に破れた後の海上氏がどうなったのか、その子孫が細々でも生きているのかには何も触れられなかった。

('01/10/29)