
- 夏休み最中にその映画館に出かけたら、満員で、もう一つ後の上映まで待ってくれと云われた。別の映画館でも同様であった。流石9月になるとそんなことも無くなっていた。9/5の毎日朝刊には、3日までに「千と千尋」が1368万人を動員する大ヒットになったと報じていた。
- 10歳あたりに想定してあるという、思春期前の少女が主人公である。映画は引っ越しで新居に向かう自動車のシーンから始まる。新居は丘上の新造成地に展開する住宅街の一角にある相当立派なお家のようだ。働き盛りの両親と一人っ子。車は道を迷って草臥れたレトロな建物の前に出る。中央に長いトンネルが通っている。父親は潰れたテーマパークの残骸だと判断する。どこか東京の博物館で、あるいは古い写真集で見たような、下町繁華街の風景が道の両脇に連なっている。明治か大正、少なくとも戦前の昭和といった雰囲気だ。食い物屋の匂いが空腹の両親を惹き付ける。珍味が大皿に溢れている店がある。しかしどこにも人影がない。
- 食うのに夢中の両親をおいて、ふらふら町を見物に出た少女は橋向こうに湯屋を見つける。道後温泉本館を更に豪壮にしたような造りである。道後温泉は3階だが、この湯屋は更に高層で、中にはエレベータを備えている。最上階に取り仕切り人の住まいがある。なんだか、昔のオーナー百貨店のようだ。宮崎駿監督は大体昭和の初期に妖怪の住む環境を設定しているのだろうか。日が暮れて周囲が薄暗くなると、湯屋にも町にもに灯りが煌々と灯り、今まで無人であった通りに黒い影がうごめき出す。ここは八百万の神々が休息にやってくる歓楽街なのである。少女は豚にされた両親を救うために湯屋で働くことになる。ボスの湯婆婆は少女を本名荻野千尋から3字を取り上げて千という名で使う。人格まで差し出した昔の奉公が想定されている。このカットには感心させられた。
- アニメでは声優の力量が印象に大きく響く。バーチャルな世界と人間を結ぶインターフェイスなのだから。主人公は若いから一本調子なのはやむを得まい。だから助演陣の能力が非常に大切である。湯婆婆をやった夏木マリと釜爺の菅原文太はまずまず無難にこなしている。欲を言えば、湯婆婆は湯屋を取り仕切る立場なのだから、凄みを効かせる言葉のキレと言ったものに工夫が欲しい。坊やに対する慈しみと仕事に対する強欲さを対比させる声色の変化をもっと付けて欲しかった。釜爺は、気むずかしさとその裏にある善良さの対比を際立たせられなかったのか。
- 湯婆婆には岩下志麻、大空真弓、音羽美紀子あたりが良かったのではないか。ドスの利いた声で女親分を演じて成功しそうな女優はあんまりいない。もののけ姫における田中裕子の声の出演が素晴らしかったので余計そう思う。彼女が主役かと思わせるほどの見事さだった。沢口靖子のお母さん役は、出番も少なかったし期待はずれであった。個性を発揮できる役柄を割り振られていない。テーマソングももののけ姫のような斬新性はないようだった。
- 宮崎駿の受け身世代へのエールとも言えるアニメだ。今の10歳は、家族から学校から社会から上げ膳据え膳にしてもらって暮らすひ弱な世代である。このアニメではトンネルの先を見ようとする意欲は親にあって子供は尻込みする。そんな子供でもやれば出来る「為せば成る為さねばならぬ何事も」(上杉鷹山)と言い聞かせているようだ。日本を経済大国に押し上げた世代の後継者への遺言である。私は、戦中の集団疎開で一緒だった最年少の少女が丁度この年頃であったと思い浮かべながら見た。夜泣く子もおったが、彼女たちは概して健気であった。強くならねば生きて行けぬ経験は、疑似体験でいいから、幼い少年少女に必要である。
- アニメでないとヒットしないと云うのでも困るが、日本の文化を背景にした骨太の作品が、ともかくも小さい子供達にも受け入れられた事実にはホッとさせられた。
('01/09/07)