
- ビデオで繰り返し見た。主演吉永小百合、渡哲也の中年の恋物語である。何ヶ月かあとでわが家に原作を見つけた。もう故人になった中里恒子の同名の小説である。発表は昭和52年と言う。中里さんは生きておられれば92歳のはず。標準語だが、句読点の取り方や言葉のつなぎ方などは独特で、表現の豊かさを感じることが出来る。太宰治の津軽ほどではないが、結構難解な漢語に出会す。それから、生け花茶道のたしなみが一般的でなくなった今日の日本人には、ちょっと辛い単語もちょくちょく出てくる。
- 少し挙げてみよう。利休間道、さすがに広辞苑には間道(「かんとう」であって「かんどう」ではない)に「古く渡来した外国産の縞織物」と言う注釈がある。利休は利休風のと言う意味だが、実際はどんなか解説はない。小説では、掛け物の短冊の仕立てが地味なことの形容に使っている。短冊は紅地金砂子(すなご)で、与謝野晶子の「し乃のめや夜の去ることを惜しむ灯乃二三またゝく網代の岬」と優しい細い書体で書かれていると続く。茶碗に朝鮮の絵高麗(えこうらい)、発掘仕立ての蕎麦と聞いても私にはトント見当が付かない。着物に絽の両面染の小紋に、桃いろの手綱の紗の袋帯を締めて、ヒロインが出てくる。あるいは家内に聞いたら判るかも知れぬが、もうぼんやりとしか理解できぬ言葉である。着物の展示は好きでよく見る方だと思うが、駄目なのである。生活に密着していないからだろう。芸の上での新内、宮園、浄瑠璃。新内も宮園も浄瑠璃の一派だとは、調べてやっと判った。新幹線が走り始めたヒロイン40歳過ぎの物語なのに、小説の舞台と私とには文化的背景に大きな開きがある。ヒロインは私と10余り年上でしかないはずである。そうだから余計にしっかり読ませて貰った。
- ヒーローは事業の安定した会社のオーナー社長だが、心臓に爆弾を抱え、家庭もうまくいっていない。ヒロインは数年前に夫を亡くした親族に縁の薄い未亡人で、金銭的にはあまり困らぬ、お茶の指導を月に1-2回開くのが社会との繋がりと言った環境にいる。作者はこれ以上ないお膳立てで恋の展開を描く。骨董書画がやりとりの小道具で、政治時事など、あるいはもっと個人的な会社の盛衰などの生臭い話は全く取り入れていない。専ら主人公と時折の助演者−それも友人、秘書、運転手に最後に出てくるヒーローの奥方と数は少ない−の会話と主人公の心のつぶやきだけで構成されている。心が纏まらぬままに、読点で長々と文をつないでいる場所や、句点と読点をわざとあべこべにしている文章があって、見事な技術だと感心させられる。
- 恋は成就寸前にヒロインの家でヒーローが心臓発作で死亡する悲劇的終末になっている。ヒーローがヒロインと共に住む日を夢見て描いた住まいの設計図が、友人の手から渡される最後は玄人らしい仕上げだ。映画でもそこは同じだが、死亡の場所がたしか雨降る時雨亭跡になっていた。秋の小雨のように通り過ぎた恋−時雨の恋−と定家卿の時雨亭がこの時雨の記という題名の由来である。小説には時雨亭跡は嵯峨野の二尊院にあると書いてある。二尊院墓地には上層公家の墓が並ぶからあっておかしくはないが、私はその石碑を記憶していない。映画では庭園の小池の畔になっていた。葬儀後にヒロインの家で奥方が関係を詰問するシーンは小説ではあっさり描かれているが、映画では亡夫が持ち込んでいた磁器を庭石でぶち割るような強い仕草で表現していた。随分昔(10年以上)だったが、自由な恋人の家に本妻が訊ねてきて、殺されるのではないかと思ったと言わしめるほど、そっくり同じにただもっと強烈に、次々に破壊するシーンがあった。このTVドラマ(弓代と規子)の恋人役は大原麗子、本妻役は音羽美紀子であった。名演技だったのか、いまだに覚えている。
- 小説では京都の他にヒーローの欧米旅行が重要な意味を持っている。しかし映画ではそれを全部京都にすり替えてしまった。病院での奥方、息子とヒロインとの出会いは映画での創作である。それから秘書とか運転手の出番は、全くなしと言ってよいほどに縮小されていた。ヒロインはお茶ではなく生け花の師範で、流派の京都進出と絡み合わせていた。骨董書画には余り重要な意味を持たせていない。時代も新しくした。すこしづつ脚色では大衆向きにしている。でも、難しいテーマを程良く映画化したと、私は合格点を差し上げたい。
('01/08/29)