
- 人は鬼にもなれば仏にもなる。私の好きな台詞である。もう何年か昔、TVドラマ「新・御宿かわせみ」で同心が女郎屋の主人を脅すシーンで聞いた憶えがある。父親に好きな女の身請け代を工面してやろうと身売りした孝行娘を、すぐには見世に出さぬように十手をちらつかせながら頼んでいる。原作の「ぼてふり安」の中にはない創作である。掲題の文春新書を読むとこの言葉が頭を過ぎる。人は群を作ったら最後、仏より遙かに鬼になりやすい宿命も感じる。宗教、主義、言語、歴史、社会階層、生活基盤なんでも互いが違うと認識した相手に対する警戒、敵愾心、疑心暗鬼、差別が一度火を噴くと、話し合いの平和解決など全くの絵空事になって、延々何百何千年の怨念に繋がってしまう。個人単位では仏は希ではない、いや希ではなかったと云うべきかも知れぬが、ともかく具体的に「仏になった人」の名を思い浮かべることが出来るのはまだしもの救いか。
- ロマンをかき立てるのは消えた民族。4世紀から6世紀にかけて人間社会を揺るがした民族大移動の震源・匈奴は曖昧模糊たる存在でしかない。匈奴は中国側の記録であるが、同時期のヨーロッパ側で云うフン族も行方の知れぬ民族である。彼らが匈奴と同じであるかどうかも判っていない。13世紀が舞台のNHK大河ドラマ「北条時宗」で、日本が対峙する元は云わずと知れたモンゴル大帝国のことである。だが、彼らは、匈奴と同じ地方に起こったと云っても、遊牧民だから両者は近い関係にあったかも知れないとしか言えない。今のモンゴル国、中国の内モンゴル自治区の住民はそのモンゴル族の末裔なのであろう。匈奴は彼らの神話として残っているのかな。遊牧民でも求心力がある民族は今に血筋を残している。モンゴルの求心力とは世界帝国の栄光と現代まで継承された文字の力なのであろう。ソ連時代に大帝国以来の民族字を廃止しキリル(ロシア)文字に転換させられたようだが、今はどうなっているのかしら。とにかくわれわれと同じモンゴロイドだから、彼らには特別に関心がある。
- バスク人はスペイン東北に住む日本人にはあまりにも遠い存在と思っていた。TVのCMにあった力自慢のパーフォーマンスと時折の民族紛争でやっと覚わった少数民族である。彼らがクロマニヨン人の末裔つまり元祖白人で、言語的には全く世界から孤立した存在であるとはこの本で始めて知った。ヨーロッパにはこのバスク語以外に印欧語でない言語が幾つかあるがいずれもアジア系という。ハンガリー、フィンランド、エストニアなど全くの白人系人種と思える人たちが使う言葉がウラル語の特徴を持つとは面白いことである。ハンガリー人には時にはモンゴロイドの形質が現れるという。周囲のスラブ人と混血しても遺伝子は継承されると云うことだ。
- スイス・ジプシーの悲劇については一度このホームページでも取り上げた。詳しい説明がこの本にある。ヒットラーによりユダヤ人と同様に民族浄化の対象にされた彼らロマ族が多大の犠牲を出しながら、ユダヤ人と対照的に民族の主張をしないのはなぜか。インド北西部パンジャブ地方にルーツを持つアーリア系民族と言う。移動を始める10世紀に独自の文字、統一的宗教がないまま各地に散った人々には、せいぜい部族的自意識しか育っていなかったためと思われる。15世紀にヨーロッパに到着して以来、彼らは迫害されっぱなし排斥されっぱなしであった。今は各国の同化政策で流浪の民ではないものの、相変わらず社会の底辺で生活する差別された民でいるらしい。わが国のアイヌ民族に重なり合って他人事でない。アイヌも独自の文字を持たぬシャーマニズム宗教の漁労半定着型民族であった。
- ヴェトナムはわが国と同じく漢字から出発しやがて独自の文字を発明したが、フランス植民地化と共にローマ字表記に変わったという。これはもっと詳しい実態調査が必要だ。ヴェトナム語の「て、に、お、は」以外の、ことに難しい意味を伝える抽象名詞が漢語由来のままか、またはそっくりフランス語由来に変わっているのか。国立民族博物館の梅原先生が日本語ローマ字表記論者だったので驚いたことがあった。ローマ字論者は結構碩学に多いのが気になる。私はわれわれが日本文化をずっと背負うつもりである限りは、これから入る外来語でローマ字起源のものを、今までのように片仮名表記にせずにそのままのローマ字表記にする程度で十分だと思っている。世界4大古代文明の1つエジプト文明を担った古代エジプト人の末裔は何処にも見当たらない。今そこの住民が使うのはアラビヤ文字アラビヤ語を使うアラビヤ人である。人間が入れ替わったのではない。イスラム教への改宗が中東一帯をアラビヤ人化した。コーランか剣かが強烈にまかり通った地域であったのかも知れない。地域的に同じアフロ・アジア(ハム・セム)語系の民族であったから受け入れやすかったかも知れない。だが、同じ語系ながら自身のベル・ベル語を守ったベル・ベル人は文化的に他とは区別される存在である。遊牧民であるために剣から逃れられたのか。類似の例は至るところに転がっている。
- 本書に記された、解決の糸口も見付からない幾多の民族紛争の実態は、外見は国内紛争に見えても、先住民対移住民のような先史以来の根深い対立であったり、ツチとフツあるいは東チモールのようにほとんど植民地化が人為的に招いた問題であったりする。読めば読むほど平和的解決に絶望を感じる。こんな土地では無防備無抵抗思想なんかはお笑い種だろう。隙あれば食い隙を見せれば食われた人間社会の業を、話し合いによる解決に一頃夢中になったどこかの左翼団体などは、奇異な眼で眺められるだけだろう。人が仏になれるのは相手が「われわれ」と思える範囲内に留まっている場合だけである。話し合い解決への過度の期待は、外から見れば限りなく均質に近い日本なればこその発想なのだろう。われわれは均質の社会の延長に不均質の社会での解決策を想定してはならない。近代戦ではたちまちに民族の半数を失うような結果が待ち受けている。今の日本としては国外の異質社会異質民族に対し用心に用心を重ね、出来る限りの戦備を整えて、なお相手の鼻息を伺う姿勢が大切である。
('01/04/10)