ドキュメンタリーの時代


掲題の写真展を見に恵比寿の東京都写真美術館に出かけた。恵比寿ガーデンプレイスに来たのは始めてである。旧JR車輌基地再開発のとき、大型用地としては東京最後の一等地と言われたものだ。申し訳程度の植木はあるが、見事なコンクリート空間に変わった。ビル風に帽子を押さえて通る。帰路は、駅まで続く動く歩道のある回廊を通って、風を避けた。美術館では65歳以上無料ですと云われた。
名取洋之助の「バージニア大学、食堂」を見る。白のクロスが掛かった正方形のテーブルに椅子が8脚でワンセットになっている。これが行儀良く縦横に並んでいる。1人客あり、グループ客あり。若い顔が多いから学生が使っていることは確かである。殆ど男性だ。皆背広にネクタイ。授業風景の写真もそうだった。白い上着の黒人ウエイターが各テーブルを給仕している。ファースト・フードのセルフ・サービス、服装は自由なラフ・スタイルという今の大学での一般的形式とはだいぶ違う。学生が紳士として扱われ、逆にそう行動するように求められているのが判る。昭和12年の写真である。私も大学に入ったときそう宣言されたことを想い出す。
木村伊兵衛の秋田シリースには惹き付けられた。撮り始めは昭和27年という。菅笠を顎にしっかり結わえた野良着姿の秋田おばこは秀逸の大写しである。清らかな若い眼差しがいい。よく整った顔立ちである。薄くシミが浮かぶのは化粧をしていない故だろう。色白の証拠なのか。豪雪地帯の雪かき風景、列車と行商のおばさんたち、横手のかまくらで遊ぶ子供達。農村で働く人々の写真は健康そのものだ。年寄りがいる。子供がいる。牛に羊もいる。服装もまだ昔を受け継いだ姿だ。大きな魔除けのわら人形が背景になった農婦の休憩風景。もうあんなわら人形は作られなくなっているだろう。佐倉の歴博に展示されている人形(鹿島様−村の守護神−、秋田県湯沢市−写真の大雄村とは10数kmしか離れていない−、第4展示室)とそっくりである。たらい風の浅い入れ物の中で泣いている赤子。何と呼んだか忘れたが、東北を旅行したとき、編み籠に赤子布団玩具を乗せた民芸品を買ったことがある。その編み籠がたらいに変わっただけだ。野良で赤ん坊をあやす知恵である。
土門拳「筑豊のこどもたち」を見るのは2回目である。最初は京都で見た。実はこの写真展に出かける気になったのは、京都で見た写真の1枚が非常に強烈であったからだ。今回も展示されていた。炭田閉鎖が相次いだ頃の小学校の弁当の時間である。弁当の無い子が何人もいる。隣の弁当に無関心を装って絵本漫画本に見入っている。食いたい盛りの頃私もいつもひもじかった。ひもじさは食える人と隣り合わせになると一段と高じる。給食では椀の中のほんの僅かの差が恨みの原因になった。自分だけ少ないと云って泣いた男の子を今もくっきりと覚えている。まして写真の生徒には全く食い物がない。校長の話では栄養失調寸前という。児童相談室が預かった幼い姉妹の話も悲惨である。預けられたその晩2人が脱走する。常識的には幸せなど皆無のわが家を目指す。私も集団疎開先で脱走する子を何人も見た。本能的としか云いようがないだけ哀れである。
三木淳:「赤軍故郷に帰る」は半世紀前の作品である。引き揚げ船で戻った1兵士の追跡写真がいい。羽織姿の父の横で集まった隣人達に挨拶している。そう言う近隣付き合いの作法が生きていた時代だった。抑留中に学んだ共産主義について語り、聴衆を呆気にとらせたとある。洗脳という言葉が登場するのはまだ先の話である。父親の笑顔がいい。その兵士が10ヶ月後には、親の稼業なのであろう、西陣織の商人に成り切っていたというのもいい。「吉田茂」「血のメーデー」「朝鮮戦争」もそれぞれに青春時代の記憶を蘇らせる写真である。ライフの表紙を飾った吉田茂は「国を愛し国民を愛し家族を愛し、そして葉巻を愛するシゲル・ヨシダは・・・・」と紹介されたそうだ。「国を愛し国民を愛し」と形容される政治家が、さらには日本人が、今この国に何人いるだろうか。今奉仕の義務を教育に取り入れようとしている。兵役義務がない日本には是非とも取り入れる必要があると感じる。

('01/03/16)