江戸の宿


歴史に名高い旅籠屋を挙げよと云われたら、幕末京都の池田屋と寺田屋がまず頭に浮かぶ。淡交社の京都大事典によれば、池田屋は三条小橋西詰め北側にあったという。三条小橋とは鴨川と平行して流れる人工河川高瀬川に架かる橋である。京都の花街先斗町、祇園に近く、高瀬舟の往来する高瀬川の川縁だから旅館としてはまことに地の利を得た位置にあった。残念ながら現存しない。寺田屋は伏見の船宿であった。現在も昔の姿そのままで旅館を経営しているという。名高い割には小さな旅館である。船宿とは淀川の便を利用する客の待合所のことで、宿泊客は多くはなかったらしい。だから坂本龍馬を初めとする勤王志士の隠れ家や密談の場所になったのであろう。寺田屋は淀川に注ぐ濠川の河口分流の、月桂冠の酒蔵が建ち並ぶ川沿いにある。付近一帯は造り酒屋が集中した古い景観を保存している地域である。月桂冠、玉乃光、招徳、日出盛、松竹梅、黄桜など伏見の銘酒がずらりと顔を揃えている。最後に訪れてからもう20年近くなっているが、町並みの印象は今も鮮やかである。
江戸時代の旅はかなり詳細に判っている。旅籠でどんな食事が出たか、旅日記から蝋細工で拵えた展示品をあちこちの博物館で見た。旅籠全体の風景は「百聞は一見に如かず」の諺通り、旅行記や小説より時代考証の優れたドラマの方が把握しやすい。最近の映画では「雨あがる」だろう。口下手の剣客夫妻が、彼らは2階の別部屋に泊まる上客であったが、雨があがるまでに見せる川渡し宿でのすがすがしい生き方を主題にした。宿の1階は相客でごった返している。一寸古いが、TVドラマ「御宿かわせみ」は宿そのものが主舞台で旅籠の内輪をじっくり見せてくれた。八丁堀大川端町大川畔の旅籠かわせみで、若女将が番頭1人料理人1人女中頭1人若女中2人を使い、朗らか健気に送る毎日の出来事を風物詩のように描いた佳作であった。客部屋は上下合わせて7-8室ほどであった。原作小説はオール読物に今も連載されている。文春文庫本になってもう23冊を数える長編大衆小説である。宿は次々に新しい宿泊人を迎えるから、読み切りの話題を作るには非常に都合のいい設定である。
近代に入ってからも二次大戦敗戦までの和風一般旅館の風景は大体江戸時代からの伝統に沿ったものであった。遍路宿や商人宿が活き活きと出てくる映画やTVドラマは、色濃く欧化以前の日本人の人間関係を写し出している。私は四国霊場八十八ヶ所を2回回った。ロケ跡地を覗いたこともある。これらの宿はもう昔と同じ姿では存在しない。それから和風旅館といっても今の観光旅館では、各小部屋を壁で仕切り施錠できるようになり個室化したから雰囲気は違っている。流行らぬ山奥の湯治場とか、暖簾の古い割烹料理屋とか寺の宿坊でないと、相客あるいは障子襖1枚の隣客に対する感覚は判らないだろう。我々は多分本来の和風旅情が判る最後の年層なのだろう。
深井甚三:「江戸の宿」、平凡社新書、2000を読んだ。断片的であった私の近世から敗戦時までの知識を纏めるのに有用であった。まず宿の種類に驚かされる。外国人迎賓館は無かったそうだ。オランダ・カピタンは特定の定宿。勅使のお泊まりは伝奏屋敷。本陣に脇本陣。公事宿に郷宿。定宿に同郷宿。安心して泊まれる良心的な旅籠を指定するのが講である。浪花講はその先駆けで元来は商人定宿だそうだ。我が子が小さかった頃の思い出だが、香取神社の北側に建つ鳥居の門前には、もう店を閉じた旅籠が、講札を軒に沢山掲げたままで残っていた。そのように神社仏閣の参詣講も多かった。木賃宿と聞くと何となく安旅館のように聞こえるが、木賃とは自炊用の薪の代金を指す。大体食事を提供する旅館が一般化したのは中期以降らしい。江戸中期になってビジネス主体の旅に物見遊山娯楽のレジャー余裕旅が加わるようになって木賃宿から旅籠に進化した。
余裕ができるとまずは女遊び。遊女、飯盛女、飯売女、宿場女郎などと色々書くが皆売春婦である。彼女らが今と違うのは、年季奉公で8年20両といった前借りで抱え主に縛られ、宿の雑用も女中並にやらされていたことだろう。この曖昧旅館の飯盛旅籠が次第にただの平旅籠より優勢になってお上の指導を受けるようになる。飯盛女は2人/旅籠と制限されると若女中を増やして実質を変えない。やることは何時の時代も同じである。宿場町には無頼者が集まりやすく、しょっちゅうもめ事が起こる。そのため町では店頭というヤーさんまがいの男伊達をおいてトラブルに睨みを利かす。留女という客引きが強引に旅人を宿に引き込む姿が広重の「東海道五十三次 御油」に描かれている。鬼平犯科帳でフランキー堺が盗賊を演じた1幕でも留女の強引さが喜劇的に演出されていたが、実際にそんなものであったらしい。私が見た客引き合戦の最後は金比羅参詣道門前のうどん屋同士だったが、客引き合戦そのものは見ていて結構楽しいものである。森重久弥、伴淳三郎主演の喜劇「駅前旅館」シリーズが昔大当たりを取ったことがある。あんな姿だったと思うと楽しい。大きな旅籠は前後の宿まで客引きを送り込み、また広告宣伝に務めたものという。
善根宿、報謝宿は個人の善意に基づくが、それを当てにもの貰いや巡礼が増加する。自然と支えるのが負担になって村全体による合力宿になる。最底辺にはぐれ宿とかずばり物貰人宿と称する宿もあったそうだ。関東では合力宿に進むのが早かったという。善根とは果てが無いどころか当てにされてそれが増加する質のものだ。西欧諸国民はとっくに援助疲れにかかってしまったが、今日本国民がそうなろうとしている。外国に出ると援助援助の合唱に出会う。云いにやって来る。give and takeだよ。お返しにせめて心だけでもこちらを向いて欲しい。だが、援助を多く貰った国ほどそれも責任ある立場の人が反日本的言辞を平気で流す。日本は一度全援助を打ち切るべきである。一寸逸れたが、このボランティア精神の宿は考えさせられる。1月の歴博講演は井原先生の「中世の高利貸」であった。中世では今では信じられぬような高利が当たり前だったが、元利合計が倍になったらそれ以上は請求できぬ利子制限法とか、債権を消滅させる徳政令などの救済法が機能していた。現代の大会社に対する債権棚上げなどよりもっと一般性があったようだ。それでも落ちこぼれる人は多かったろうが、日本古来からの社会維持救護のシステムには見るべきものがある。
旅籠代は幾らだったか。これはなかなか換算が難しい。だが、一般旅館なら食事付きで4-5千円、高級旅館だったらその倍ぐらいだったのではなかろうか。ただしお遊びは別料金である。普通は家族にせいぜい女中を2人ぐらいを使う経営で、大坂の1000人も泊まれるという平野屋のような大旅館は別として、街道筋の宿場でも5部屋程度が多かったという。だから食事も特別によいわけではない。そのためか料理旅館が三都には現れる。茶屋というのにも曖昧料理旅館があったであろう。料理人を入れている「かわせみ」は中の上ぐらいの平旅籠だったのだ。奉公人の給料は大坂の飯炊きで江戸下期に半季70-75匁という。1両=60匁=10万円なら最下級の女中で月給2万円である。以前勤番侍・酒井伴四郎の懐具合を計算したとき、今の開発途上国に比べれば結構高給取りであることを知った。女中の月給もその証拠である。日本がいち早く近代化できた裏にある庶民の台所事情が浮かび上がる。
ともかく色々考える資料を提供してくれる本である。

('01/02/08)