社会的ひきこもり


今年の春、西鉄高速バスをハイジャックして乗客の1人を殺した若者も、ついこの間金属バットで通行人を次々無差別に襲った若者も精神科医の患者であった。前者は入院治療中に一時帰宅したときの凶行で、外泊を許可した医師の判断の甘さが批判の的になった。後者に関しては、逆に入院させなかった医師の判断の甘さを突いた評論が新聞紙面に出た。複雑怪奇の「心」を取り扱う精神医学は、実用科学としてまだまだ未発達な段階である。だから、呪詛、信心、民間治療、さては根性道場のヨット・クラブまで出てくる。両事件とも加害者による家庭内暴力が絶えず、医師よりも両親が状態の深刻さをよく理解していたと思われるのも未発達の一つの証拠であろう。
社会の関心も一段と高まった。南船橋のさる大型一般書店を覗くと、「心理学」「心理療法」「カウンセリング」「精神医学」の隣接4ジャンルがそれぞれ書棚を1本づつ占拠してこの順に並んでいる。最後の精神医学は他との同居ではあったが、それにしてもなんと本数の多いことか。著者の出身を見ると、文学部心理学科、医学部精神科は当然として理学部や教育学部もあるし、文学部哲学科もある。文学部系は心理学に多く、医学部系は精神医学に多い。「心理療法」「カウンセリング」では入り乱れるのである。著書の数では俄然多い河合隼雄先生は理学部数学科であった。心とは捕まえどころのない扱いかねる対象であるが故に、あらゆる科学からのアプローチを促し、またそれを許すほどに未発達なのであると思った。
斉藤環:「社会的ひきこもり」、PHP新書、1998は買った時点で第8刷だが、類似一般啓蒙書が見当たらぬ中、今後も版刷を重ねると思われる好著である。第2部の実践編は具体的にどう対応するのかを経験に基づいて書いている。そこが圧巻である。臨床医の焦慮感があちこちに出ている。私の周辺にも「社会的ひきこもり」的人間がいた。彼に対する家族の真剣な対応、病院の対応も知っている。本人も何とか敗北感、劣等感から離脱して社会的に復帰したかったろうと思う。だが、駄目なまま高齢を迎えてしまった。本書に云っているように、家族の正論は何の役にも立たなかったようだし、彼を追い込むだけだったようだ。その家族に真っ当な兄弟がいたことはかえって有害であったろう。影響力を行使できるのは家では親が一番という指摘も正しいように思える。
本書では社会的ひきこもりは、「二十代後半までに問題化し、六ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」と定義されている。幼年少年少女時代を家庭では小さな王様女王様として過ごし、学校では無限の可能性を持った才能として何とか花開かせてやろうと手取り足取りである。それが社会に出ると、一転我慢と忍耐の連続で一個の歯車として生きるしか術がないことを思い知らされる。歯車認識を精神分析家は「去勢」と呼ぶそうだ。去勢は成長であるが、他人からの強制で始めて出来る自覚である。エリートに多い社会性の欠落はその証拠であり、彼らの中に結構social withdrawalする人が出てくる理由になっている。
この本が書かれた時点で推計60万人が「社会的ひきこもり」状況だという。200人に1人である。統計はないがそれが増加傾向にあることには間違いないという。何年も閉じこもって家庭内暴力を振るう重症患者でなくても、社会的に根無し草の生活を人生目的無しにやっている人は「社会的ひきこもり」予備軍であろう。彼らを入れればその何倍かになろう。彼らの中には才能豊かな秀才がかなりenrichされた状態で見かける。アメリカは将来の日本の世界経済の牽引車としての役割を疑問視しはじめているし、私もしばしば今が精一杯の実力と言ってきた。その理由の一つは社会貢献の努力をしない若い英才の増加である。そんな社会の出現を嘆いているのではない。江戸時代の元禄期のように、それはそれで新鮮な別種の文化の開花をもたらすと期待できよう。しかし、若い世代の変質を余所に、政治がいつまで経っても過去の延長を指向することに、強い危機感を抱くのである。
話は逸れたが、「社会的ひきこもり」が今後の日本社会を動かすキーワードの一つであることは間違いないと思わせる本であった。

(2000/12/22)