長崎ぶらぶら節

- 舞台の丸山遊廓は江戸時代からオランダにも清国にも著名であった。ただし、今の感覚で云う日本の恥部として名高かったのである。男の性のはけ口を求めて、わざわざ危険な荒海を乗り越えてくる清国人もおったらしい。これはケンペル日記に書いてある。彼らの求める相手は女郎で芸者ではなかったろう。芸者は旦那という保護者に操を立てながら、お座敷で色事混じりの芸を売る。女郎は抱え主に拘束されながら、より深い色事で不特定の男をもてなさねばならぬ。この映画ではここの厳重な区別が良く出ていたように思う。監督の深町幸男は「夢千代日記」のディレクターであった。夢千代は丹後の温泉町の芸者であった。夢千代もこの映画の主人公愛八とおなじく吉永小百合が演じた。こんな風景を映像化できる演出家や芸人は今では貴重になってしまっている。まともな最後の映画にならねばよいがと思った。
- 愛八は実在した芸者だという。没年が昭和8年60歳と云うから私の祖父とほぼ同じ時代を生きた。祖父は私に物心が付く頃まで長生きしたので、父母の時代とはまた違う時代の気風を、小さな窓ではあったが、私に伝え残してくれたように思う。原作者なかにし礼は私がらみの年輩故、時代の気風の感覚的な伝わり方は私と大同小異であろう。無垢高潔に生きるというのが一つの理想として生きていたという実感である。愛八が現代ドラマの主人公なら、有りもせぬお伽噺として一顧だに与えられないであろう。週日だったのに映画館の座席はほぼ埋まっていた。だが、観客には老人が多かった。若い人たちも見て欲しいと思う。日本精神文化の優れた一面が映像化されているのだから。
- 愛八だって、華やかな花街にあって、日陰者の屈曲した感情を隠して生きねばならぬ辛い裏面はあったろう。だがこの映画では表面の輝くばかりの徳性に焦点を絞り、無償の愛を時には我が身を削っても分け隔てなく周囲に与え続けた芸者として描かれている。彼女が芸者で、徳を宗教的修行により会得した聖や聖女ではないのが日本である。相手役古賀も学者として生きるために身代を放蕩し尽くし、古歌蒐集の旅に出るなど現代では理解できない姿勢だろう。旅に同行して仲を疑われた愛八が旦那に「面子に関わる」といわれ縁切りを懇請する。潔いことだ。年増の将来だけを考えたらとても出来た話ではなかったはずである。旦那は温情で手切れ金300円を代理という弟に渡す。だが弟は「代理」を詐称していた。300円を借金と酒に使い果たしてしまう。愛八は詰問する。そして自身が捨て子で故郷のない身であると知る。原作者なかにし礼が兄の不始末の尻拭いに追われた話は有名である。先が無くなりかけている愛八になお覆い被さる身内の不都合な甘えを、原作者は指弾したかったのであろう。この種の甘えも祖父の時代の一面である。
- 長崎ぶらぶら節は初めて聞いた。東映のホームページに愛八ご本人の歌声が取り出せるようになっているからお聞きになったらよい。歌詞には嘉永7年とかオロシヤとか黒船とかが登場する。正に土地を物語る古唄である。蒐集の時、もう唄えぬ古老が僅かに覚えていた何行かの歌詞が愛八の記憶に重なって、ぶらぶら節として復活するシーンはこの映画の第一の見せ場である。その愛八の記憶とは、少女の頃に置屋奉公に出されたとき、仲立ち人(判人)が唄った俚唄であった。他にもいくつかの音曲が挿入されている。私は芸者遊びなど縁のない半生だったから、お座敷で唄われる音曲など馴染みがないはずだが、断片的にでも知っているのはテレビに映画のせいである。ドスコイドスコイとくる相撲甚句は誰にでも馴染みが有ろう。冒頭に「カンカンのホーレンス」と意味不詳の言葉が出てくる唄はNHK「物書同心いねむり紋蔵」で子供達に唄われていた。
- 唄ではないが、愛八が庇護する恋の辻占のシーンは、鬼平犯科帳のテレビ劇の何処かで、浪人の健気な娘のアルバイトとして見た憶えがある。私は一度だけ駆け足だったが長崎を観光旅行したことがある。グラバー邸脇を通る姿は懐かしかった。長崎くんちの出し物はインターネットでダウンロードした映像の通りだった。
- 歳を食ったおかげか、100年200年スパンの日本文化が少し見えてきたように感じるといったら、おこがましいとおしかりを戴くだろうか。
(2000/09/23)