
- 京洛から来た貴人が都を遙かに偲んで、ここの渓谷をあの嵐山(あらしやま)のようだと口走ったのが基になって、武蔵の国のあらしやま、武蔵嵐山となったと伝える。但し嵐山は「らんざん」である。源頼朝の御家人畠山重忠の城館跡が、後世の規模拡大も含め、殆ど無傷で残っていることで有名な土地である。関東に出てきて土塁の城跡をあちこちで見聞した。だが、鎌倉時代まで確実に遡れる城はそう多くはない。それに有力大名のそれといったらもっと少ない。この金曜日に訪問することが出来た。千葉から2時間半ばかりの行程を2回の乗り継ぎで行けるのだから、関東とは交通便利な場所である。少し便利すぎるとも思う。
- 真っ直ぐ埼玉県歴史資料館に入った。正面に源平合戦図の写真が壁に填っている。一の谷の合戦である。国民学校(今の小学校)時代の唱歌を思い出す。唱歌の義経は「鹿も四つ足、馬も四つ足」と言う無茶苦茶な論理で「三千余騎」の「鵯越の逆落とし」奇襲をやり、平家の軍を敗走させる。畠山重忠はその中にいたそうだ。まずビデオ室で比企郡と嵐山町の歴史概要を見る。ここは鎌倉往還を守る戦略拠点である。鎌倉往還の名残を後ほど城館跡脇で見ることになる。
- 武者姿の畠山重忠のロボットが展示の概要を説明する。面白い趣向である。彼奉納の大鎧が残っているという。だからロボットはそれらしき姿なのであろう。彼は頼朝の死後北条時政に滅ぼされる。時政との戦いがこの附近で行われたのなら、もっと注目される場所であったろうが、重忠は鎌倉遠征途上暴戦してあっさりと戦死した。それ以降の比企地方には歴史書を飾るような事件はなかったようだ。資料館の半分はだから鎌倉武士中心の展示である。男衾三郎絵詞は以前にも見ているはずだが、細部まで解説を聞いたのは初めてだと思う。門前で乞食坊主と門衛の侍が争っている所など面白かった。平時でも個人的には臨戦態勢を解かない時代とは、今では想像も付かないぎらぎらとした男っぽい情景なのであろう。
- あとの半分は民俗資料の展示である。囲炉裏端の老婆が坂上田村麻呂の伝説を語りかける。勿論老婆はロボットである。農民を苦しめる悪竜を田村麻呂が観音様の助けを借りながら退治する物語である。こんな伝承に載せて民衆は社会の規範を次世代に伝えた。竜も観音も迷信非科学的幻想と教えるようになって、我々は伝承が持つ教訓をも見失うようになった。今無機質17歳の凶悪犯罪ぶりが議論を呼んでいる。捨てたものを取り戻すのは容易ではないかも知れぬ。それでも、表面だけを見て打ちやった民俗伝承の再評価が望まれる。
- 国道254号線嵐山バイパスに面した一帯が二の郭で資料館はその中にある。二段構えの土塁になっていて、しかもその前面の国道あたりは泥田にして敵の侵入に備えていたという。広い城跡だ。ずっと地方領主の本城であり続けたのだろう。戦国時代で終わっているので畠山氏以降は明確ではないようだ。本郭は一段高くなっている。郭と郭の間は空堀ないし自然の谷である。誰もいない散歩道を南に辿ると、南郭になり更に道が下って、都幾川縁に達する。下りきったあたりにホタルの里という立て札が出ていた。西郭に出る道の側に蝶の里とオオムラサキの森がある。オオムラサキの幼虫の食草はエノキだそうだ。雑木林にエノキとクヌギを始めとするブナ科の樹木が生い茂っていた。そこの活動センターの人に聞くと、オオムラサキが羽化するのは7月に入ってからと言う。オオムラサキが自然に悠々と飛揚する姿は、中学生の頃にかなりぼろぼろの姿で見たきりだから、本当に出るのならもう一度行きたい。結局蝶はオオムラサキを始め、おると聞いたアカシジミなどのゼフィルスすら1匹も見ずに終わった。
- 東武東上線の電車には帰宅の高中生徒が多かった。空席がないと彼ら特に彼女らは床や地べたに新聞紙も敷かずにべったり座るのである。私の住む千葉でもこれは見慣れた風景ではある。しかし余所で見ると改めて不作法も極まったという感じだ。昔ならオッチャンたちのセクハラ対象だったろうが、今は知らん顔で居らねばならぬ。セクハラ退治も度が過ぎるとこんな風景を招くと云うことだろうか。
(2000/06/20)