
- イーハトーブとは外国のイメージである。だが、私は知らなかったが、宮沢賢治は童話集「注文の多い料理店」の広告文の中で、それが岩手県の情景がある架空の地名だと言っているそうな。その岩手県の物産展が近くの百貨店で開催されている。毎年何度かやって来る。岩手は、最近では、数年前に盛岡の高分子学会に出席するために訪れている。そのときは戻り道で僅か2-3時間ほどだったが遠野を訪れた。歩けるだけ歩いた。だがカッパ淵までは辿り着けなかったのが残念だったのを記憶している。最初は新幹線が盛岡まで伸びた頃で、ホテル建設ラッシュのためだったか良い宿に安く泊まれた。もうシーズンオフで花はなかったが、石割桜が印象的だった。その石割桜も老齢には勝てず、樹木医の世話になっているという記事を2-3日前に見たばかりである。
- 丁度昼時であったので、その会場に出店の食堂で飯にした。らんち定食1000円。膳の中は蕎麦飯、肉団子を包んだ油揚げの袋煮に大根・人参・莢豌豆の炊き合わせ、イクラと鮭軟骨の小鉢、出汁の掛かった湯豆腐、青菜のお浸し、海草を具にした味噌汁に香の物であった。素材の組み合わせに出汁の取り方など、私の和食感覚と少し離れていて面白い。蕎麦のつぶつぶが入った飯なんて初めてだ。うまくはないが。その膳の外にわさびの利いた蕎麦が付く。昔に比べればかなり控えめなのであろうが、それでも東北の料理は塩味が効いている。本日の塩分は昼食だけで制限量突破だなと思いながら食った。出汁や味噌汁を残せばいいのだが、本当の旨さはそちらにあるから、なかなか健康ばかりを云っておれない。
- 「大阪のお人は、うどんをおかずにしてご飯を食べはる」、7回忌を迎える明治生まれだった亡母はそう言って、下品な食べ方と嫌っていた。同じように混ぜ飯は何故か犬飯と蔑んだ呼ばれ方をしていた。なるはどわが家にいたワン公は、味噌汁やらなにやらをぶっかけた飯をよく食っていた。戦中戦後の食糧難は、こちらのタブーをわが家から取り払ったようだった。だが、麺類と飯の合わせ食いは慣習的に今でも滅多にやらない。亡母が下司っぽいとした美意識を引き継いでいるのである。イーハトーブのらんち定食で、また母に出会うとは思わなかった。
- 一口蕎麦を惣菜に加えた料理には旅先などで時折出会う。これはこれで良いものだ。だが、おかずの程度を越した分量の、合わせ食いにはどうも抵抗がある。戦後20年ぐらい経た頃だったろうか、私は技術実習でドイツの工場にいた。食堂は階層別で、職長クラス、職員クラスと分かれていた。勿論幹部クラスは別途あったと思う。職工は職場で持参のパンとワインで思い思いに腹を満たしていた。イギリスでは会社の食堂は覗かなかったが、ドイツ同様階差区別が峻烈だったのではないかと思う。私が勤めた日本の会社では、敗戦と共にこの敷居は取り払われたそうだった。工員から部長までが同じ食堂で同じメニューだった。私はかっての丁稚どんの身丈にあった食い方が不必要に拡大した理由が、こんな所にもあるのではないかと思う。飯は食えばいいと云うものではない、禅宗では食事を重要な心の鍛錬修行の場と考えて実践している。悪貨良貨の例えも教えるとおり、そんな心得を毎日確かめ合う場が文化の伝承には必要なのである。大阪式の食い合わせが一般化しだした頃と奇妙に符丁を合わせるように、エリートやキャリアの堕落が始まっている。精神の持ち方は文化のあらゆる面と微妙に結合している。食に対する感性や作法も、トップを形成するエリートの品性に反映する。
- 今は1食ぐらい抜いてもどうと云うことのない、あるいはかえって健康によい時代になったのだから、風格のある食べ方も我が身の修練と思って心掛けたいものである。世界に類い希な道徳社会を一度は成功させたわが国である。経験のない社会を新たに構築するのは困難だが、一度歩んだ社会は取り戻せると信じたい。
(2000/03/19)