地球法廷:教育を問う


NHK地球法廷プロジェクト事務局から番組感想を求められた。送った拙文を以下に紹介する。
BS1「地球法廷:教育を問う 第1部 自由か規制か(1/8) 第2部 エリートか平等か(1/9)」をビデオ収録し繰り返し見た。なかなかの中身であった。以下はお誘いに応じて書いた感想文です。先に自己紹介しますが、小生は少し以前まで高専教授であった。ただし、教授歴より企業研究者歴の方がはるかに長かった。教えられる立場はとっくの昔に卒業したが、教える立場と教育成果を実社会に役立てる立場を経験したから、多少は現実的な判断を持てるのではないかと思って書きました。
関連番組だからと思いまず見たのが1/8教育テレビでの河合隼雄・吉本ばなな第1回対談である。その内容を河合先生が翌日の毎日新聞朝刊の随筆「三年寝姫」にきっちり紹介なさった。吉本さんの父が娘に向き合った姿勢と娘が受け止めた姿勢が、雨戸論争を中心に出てくる。父は娘が高校では居眠りばかりしていても気にも留めないようだったが、家庭では論争の連続である。そのなかに、河合先生が激賞するこだわりの論争として、「雨戸を夜閉めるか明けるか」という話が出てくる。埒の明かないテーマで延々と議論して何が得られるか。簡単に折れて早く寝るのも良し、明くる日新たな理論武装で立ち向かうも良しで、なるほどうまく車輪が回れば高級教育だと思った。自由にさせても放任しない姿勢がよく出ていた。
私もこの親御さんとは同じ世代である。応援団と空手、何とか云うボランティア活動など好き勝手に高校生活を送り、浪人してやっとこさ受かったたった一つの大学に喜々として通った私の息子は自由な家庭と思っていたか、放任家庭と思っていたか一度聞いてみたい。だが親の私は自由の家庭を意識していた。あの時代の親は、過去の短所である息の詰まる躾と干渉からは自由にさせたいと思いながらも、過去の長所はきっちり受け継いでいた。
「地球法廷」は様々なカメラアングルから、私にとって未知の教育現場の映像を届けてくれた。日本の現状に関してはまだしも見聞の機会があるが、外国に関しては全くない。テレビの威力を今更に認識した。「考える素材」としての投書の取り上げ方も公平だった。新聞雑誌などの活字記事だと、反対意見が併記されていても、見出し次第で一方偏重の主張押しつけになる。それに記者編集委員などのフィルターを何度か通っている。地球法廷のようなテレビ番組を見ていると、それが感覚的にストレートに判るのである。テレビがなかった頃に比べると、我々は活字に素朴単純に「扇動」されなくなったと感じている。
蛇足に付け加えると、テレビのニュース番組に登場する現地レポーターの「結語」は全部が全部ではないが大抵は嫌みである。世間知らずの「おぼっちゃま」「おじょうちゃま」が、狭い正義感から公器を使ってヒステリックに事件を論評していると感じるときがある。地球法廷の現場映像にはそんな論評はなかった。予めよく練られたせいもあろう、だが基本姿勢が根本にある。私たちはテレビから正確な情報が欲しいのであって、若造の解説などは無用なのである。
外国の動向は注意を引いた。戦後の奇跡の復興、先進国入りという成功で、日本の教育は、各国が明言するしないに関わらず、一つの世界標準に成りつつあると思った。我々は学力水準高い新社会人を送り出す効率高い制度を作り上げ運営している。新しい教育方向は「ゆとり」「個性」「自主性」であったか、賛成意見には肯ける内容もある。番組でもデンマークの例が示された。農業立国ならではだと思う。将来の極度の売り手市場化は目に見えており、技術進歩はなだらかで製品生命は長く途切れない。だが、1億の人口を養うのに技術立国以外を考えられない日本が、先進国であり続けたいなら、嫌でもこの世界標準を維持せざるを得ない。
今回の地球法廷では取り上げられなかった移民は実質はもう既に始まっている。一昨日12日に報道された国連経済人口局の発表では、日本は現状維持に年60万人の移民を受け入れる必要があると云う。映像に見たような中国韓国のハングリーな猛烈学習移民に「ゆとり」国民が自由競争で太刀打ちできるのか。「ゆとり」対策に現実に示されたプランは何か世間知らずの甘いお話に見える。移民があっても自由競争ではない、国民優先だというかも知れない。日本文化ベースの競争というハンディが外国人にあるし、「ゆとり」もゼロを意味するものではない。しかし、これも甘い認識である。
何かにつけ保守的な老人層がどう反応するか。昔なら子孫の立場の擁護に移民絶対反対だったろう。だが、忠で、孝で、優で、相和し、相信じあえと謳う教育勅語が作る、彼らが貧しくても孤独にならず支えて貰える世界ではなくなった。阪神大震災で仮設住宅の老人が引き取られてもすぐ元に戻る時代である。今は頼りの年金が危なくなるぐらいならと消極的賛成に回るだろう。「ゆとり」なんて云っていると危ないのである。
日本文化の移ろいを象徴するのが少年法だと思う。そんな視点は地球法廷の中では目立たなかったが、江沢民主席に限らず、歴史認識は大切である。ベネディクト夫人の「菊と刀」は対日戦遂行と占領政策のための日本文化研究著作集であるが、全くの異文化ぶりに当惑しどうしだったと述べている。そんな時代から洋魂洋才に近くなった今日までに、学生が2年後の後輩の考え方が理解できないと嘆くような激烈な変化を遂げた。少年法は1949年施行だから、法律の思想骨格が出来たのは闇市に戦災孤児がうろついていた戦後間もない時期である。非行少年は、家建物は燃えたり破壊されたりしてはいたが、思想的にはその頃類い希な道徳社会と言われた日本に生れ育った。訓戒保護観察の教育刑は効果に対する十分な背景があったと言える。しかしその道徳社会は年毎にタガが緩み、道徳が犯罪を抑制できる時代ではなくなった。宗教に抑止力のあったアメリカでも、今や少年でも大人なみの刑罰の時代に移り変わろうとしている。新しい抑止力を刑罰に依存するのは時代の流れである。蛇足であるが、類似の鈍い時代対応の一つに裁判官定員数がある。過去の道徳社会ではこの人数で十分対応できたのであろうが、今は欧米に似た思想の社会である。しかるに欧米の平均の数分の1程度の人数でしかなく、あらゆる弊害が目に立つ。私は地球法廷の次のテーマとして司法制度のあり方を取り上げて欲しいと思う。
私の高校時代は日本全体がまだハングリーだった。さすがに3年生になってからは大学入試の戦術的勉強に転換したが、2年生までは好奇心と知的興味の赴くままだった。まだパソコンどころかテレビもない時代で電波少年の専らの対象はラジオだった。初歩のラジオという雑誌に、トランジスターが発明された記事を見た記憶が残っている。そんな形のあるものの他に学問にも惹かれた。微分積分は10人ほどの特別学級で、後で知ったが、大学の教科書を使って勉強した。物理も特別学級だったかどうか定かではないが、今になって調べると吉田卯三郎著の旧制高校の教科書を参考書にしていた。
とにかく学問の先がどうなっているのかを知りたかった。だが、私がフランスのエリート教室の知能指数130以上の条件を満たしていると思ったら大間違いである。そこそこの頭だったろうが、大学に進み社会に出て私は私を上回る頭を幾つも見た。古いが「好きこそものの上手なれ」が基本であった。国は敗れたのだから国の遅れを取り返すために、少しでも早く先端に出なければと云う気持ちも強かった。帰属集団への忠誠心も動機として大切である。取り敢えず偏差値に応じて無理のないところに入ったが、さて目標もないし何をしたらよいのか判らない。こんな現代の生徒や学生の悩みは正直私の理解の外にある。教室では生気のない目で虚ろに聞いている、質問もない。そのくせ私語が多い。親には反発するくせに親の暖かな懐から、幾つになっても時には中年になっても独立しようとしない。親はペットを飼うように自身の寂しさを紛らわす道具にしようとする。彼らに対する良薬は世界的視野からの未来に対する現実的警告である。
人は幼い時代ほど動物に近い。親ですら子供の吠え叫び見境無く振るう暴力に怯えざるを得ない場合がある。親なら1対1だが、学校は先生1人に40人50人と生徒がいるのだから、放任家庭の子弟が多いと収拾がつかない学級破壊は当然出てくる。1人いると同じ心情でも普通なら収まっている子供まで群がって行動するからたまらない。個性を伸ばすのと放任するのとは全く異なるが、家庭の躾から見れば紙一重の差でもある。決してゼロにはならないし、その子の周辺の抑止力もこれから今以上に強くなるあてはない。
学級あたりの学童数を目が届き世話が焼ける範囲までに減らす以外に手はあるまい。欧米の試行錯誤は、経験的に、それが25人という数字であることを示す。それから体格が先生を越え始める年代からは半義務教育化することである。学級を壊し周囲の学童に脅威を与え自身は教育に意義を認めぬ生徒には、彼らが価値を認める世間という広義の教室に転換させるようにするのである。教員には体格優れた男子を多く採用すべきである。女子でも柔道ぐらいはやった人が良い。昔は男は剣道柔道、女は長刀が必修だった。それに戻ることである。出てこなかったが、霊長類研究所の先生なら学級のボスの条件を的確に指摘してくれよう。教室は修羅場である。体力に劣るひ弱な言葉だけの平和主義者では、弱年者の教室の運営は務まらない。
最後に番組時間について。90分/部は少々長い。私らの年層はこれでも良いが、堪え性の劣る現代の若年層は半分ぐらいでチャンネルを回したのではないかと危惧する。学生に生の講義を受け持ったことのある人ならお分かり頂けると思う。

(2000/01/14)