さもしい顔


近頃あまり聞かなくなったが、京都の親の年輩の人は「卑しい」より「さもしい」という表現を多く使った。都議会議員欧州視察団が架空領収書で経費をごまかした事件の報道を聞いて「さもしい」が蘇った。地方議会のこの手の話は全く再々で、それを逆手にとってクリーンをうたい文句に当選する人が出るのだからたまらん。
TVで「砂の器」を見た。殺された元巡査の勤務振りに戦前の公務員の精神規範が滲み出ている。原作者松本清張は社会派の推理小説家と云われただけあって、当時の世相を反映した材料を見事に集めている。洪水の時の活躍を伝える挿話などうまいものである。私にも思い当たる話がある。私は幼い頃阪急箕面沿線の桜井という地方に住んでいた。紅葉の名所箕面には川縁に目立たぬ石碑がある。箕面川が氾濫したとき溺れる人を助けるために殉職した巡査2名の公徳碑である。私はまだ小学校前の頃で、雨が上がってから爺ちゃんに連れられて、橋の流されたこの川を見に行った記憶が残っている。その爺ちゃんは時折母に自分が生い立った村の話をした。村の名士と言えば巡査に小学校の先生、それから海軍中尉だったそうな。海軍中尉は若くして死んだ私の叔父で、爺ちゃんの悔やみ切れぬ自慢の息子であった。それはさておいて、公人が敬意を持った目で見られ、本人たちもそれに答えようとする社会だったことには確信が持てる。高い道徳性奉公精神が当然とされておったからこそ、官に対する信頼があり少々の横柄さを許していた。
公人は私には属さない法外な利権に隣り合って日常を送っている。誘惑は多いことだろう。誘惑に打ち勝つには心の垣根が必要だが、その垣根がここ5年ほどの間に急に低くなったように思う。以前、松山で消防署員が署内で署長を刺殺するという事件があった。深い怨恨があったわけではなく何となく気にくわんとか云う気軽な理由だったと覚えている。私の公人に対する信頼感に赤が灯ったのはその頃からである。警察官が恐喝をやる、点数稼ぎの誤魔化しをやる、自衛隊員の殺傷事件、汚職事件。金融機関の人々は私立企業でも準公人と思うが、お金が横にあるからか汚職は日常茶飯事のように頻発する。課長代理クラスの下級管理職から頭取会長まで、全く嫌になる。
垣根が低くなった理由の一つは限りなく加害者に甘く優しい社会をマスコミが主導し、何となくそんな雰囲気に犯罪者がなっている事である。「罪を憎んで人を憎まず」に一般原理を幻想し、過去の特高拒絶心理からか、警察の犯罪取り締まりに対し犯罪以上に神経質になる。ちょっと口が過ぎたかも知れないが、防犯に一番大切なのは社会が犯罪に厳しく容認しない姿勢である。犯した罪に償いの姿勢、それも被害者に対して特にであるが、を持たせる必要である。
殺人は「さもしい」どころの話ではないが、検察では事故で済まされ無罪か軽い処置で、被害者の家族に謝りもせず、賠償請求には破産宣告で応じるという社会は何か間違っている。最近のトラック運転の横着振りと加害事故の多さはこんな背景のようだ。「目には目を」のコーランの社会は犯罪の極めて少ない社会であると思う。多分わが国の戦前の社会にはコーランの社会のような犯罪抑止圧力があったろう。判決のとたん「儲けた」と思わせるような社会であってはならぬ。
同じ原作でも映像化した時代によって異なる脚色になる。リメークが多かった「伊豆の踊り子」はこのホームページで何度か取り上げたと思うが、その良い例だろう。同じ川端康成の原作に「古都」がある。岩下志麻主演の映画しか見たことはないが、次のリメークの時には義理の父が志麻の双子の妹に対してよこしまな野心を持つと言う設定がなされた。小説の時代から考えたら全くおかしな設定だが、映画製作の時代では観客を惹き付ける設定であった。そのときも時代が卑しくなったと思ったのを覚えている。
男の顔は自分で作るものとよく言われた。もてたいのなら、さもしい顔では駄目なんですよ。

('99/08/29)