
- 都心の公園に浮浪者や野良犬が目立つようになったのはここ3-4年のことと思う。東屋には大抵何人かのホームレスが漫然と居続けているから散歩する人も敬遠して通る。和風であれ洋風であれ庭園の中の東屋は風流の要なのだが、およそそぐわぬ人たちで占拠されているのはだらしなくなったご時世の典型的風景と言える。ワン公が散策の目障りになることは少ない。彼らは絶えず人を警戒し隠れた位置から監視している。最近は飼い犬をお供に来る人がやけに多くなり、あおられて余計目立たぬようになった。だが、交尾期にでもなれば幼児にはことに注意が必要である。野犬狩りだけでも徹底して、たるんだ世相に一服の清涼を吹き込んでほしいと思う。
- 久しぶりに四国の新居浜を訪ねた。ホームレスにはお目に掛からなかったが、野犬は公園を闊歩していた。暑さを避けてベンチの作る日陰にごろごろ寝ている。私が近づいても恐れない。それどころか何か期待を込めた眼差しで私を見つめる。見ると彼らの前にはバケツがあって日頃餌が供給されているようだった。ベンチの女人が水飲み場に移動するとぞろぞろ付いて行く。濡れた手から野犬の大型が水の滴を嘗めたとき女人は奇声を上げた。明らかに捨てられた飼い犬たちである。彼らは、面倒になったらポイ捨てして憚らぬ飼い主の元で暮らすより、今の境遇にいる方が遙かに「生き甲斐」があるだろう。だが群を作っている野犬はいつ牙をむくか判らない。犠牲は多分幼児に生じるだろう。事件が起こるまでは頬被りするのが今時の行政であるのは承知しているが、せめて野犬の始末ぐらいは先取りしてほしいものだ。
- 上記の公園は少し町はずれの黒島にある。もっと町中の金子山にも行ってみた。一帯を滝の宮公園という。丘は戦国期の城跡で、麓の古刹には真鍋某という敗死した守将の墓がある。この土地には真鍋を名乗る一族が多い。南面にゴルフ場とヒノキの植林、北面は雑木林のままで、アカメガシワ、ヌルデが目に付いた。行き着いた丘上の駐車場に雄鶏と猫がいる。奇妙な取り合わせだなと、たまたまそこで車を洗っていた人に聞いてみると、もう3ヶ月ほど共生しているという。鶏は私が歩くとコッコッといいながら付いてくる。根っからの野鶏ではないことは明らかだ。猫だって飼い猫だったのでなければ、鶏はまたとないご馳走なことは判っているはずである。みんな捨てられたんだなと軽薄な動物愛護者を腹立たしく感じる。
- 公園は鶏にとって籠の鳥から解き放された自由天国であるばかりではないようだ。野良犬が唯ならぬ形相で忍び寄ってきた。2匹いる。鶏もさるもので、始めは駈け逃げていたが飛びかかられる寸前に高く舞い上がった。鶏が飛ぶのを見たのは初めてではないが、これほど飛んだのは初めて見た。鶏と犬は互いに相手を知っていたのである。捨てられた鶏は1羽だけではなかったろう。その何羽かは飢えた犬の餌になり、それ以降犬猿ならぬ犬鶏の仲になったのだろう。
- 飛べなくなった鳥たちは肉食動物が入り込むとたちまち絶滅の危機を迎える。沖縄のヤンバルクイナもそうだというし、ハワイでも何種類もの絶滅あるいは絶滅寸前の鳥がいると聞いた。鶏にはまだ飛翔力が残っている。ヤンバルクイナには飛ぶ姿が観察された記録は無いという。そうなら鶏以上に弱い存在だろう。犬鶏の闘争現場は絶滅に行く過程を模擬的に教えているようで切なかった。平和共存の統御が弱い側にとっていかに大切かを示しているようでもあった。人の世に勘案すれば、野犬性の国家が次々に現れる現代では、わが国を始め諸国が、実力の国連平和維持軍が存在せぬ限り、アメリカの国際警察力に依存する姿勢は当然であると諦め半分に理解させられているようでもあった。
('99/07/30)