漢王朝


歴博「漢王朝」企画展の入口に中国社会科学院考古研究所所長の挨拶文がある。日本、東アジアは「漢文化圏」で中国とは「一衣帯水」と「歴史認識」を述べていた。確かに遣唐使派遣時代の200年間は唐文化の吸収に懸命だった。それ以降は消極的お付き合いで、日本文化は影響は受けたが独自に展開した文化である。独立性が強かったから非ヨーロッパ圏でいち早く西洋文明の吸収に乗り出せたし、それが欧米列強の侵略を防げた最大の理由になった。漢文化の呪詛から免れていたことが日本の今日の発展の基礎になっている。この中国人の現代日本の文化背景を聞いたら面白いと思った。今回の企画展は奈良国立文化財研究所と中国側との合同発掘による成果が重要なウエイトを占めるのだが、それには挨拶文には何ら触れておらなかった。
中国では人糞を豚に食わせて始末する話は昔聞いたことがある。この展示品の中に便所と豚舎が同じ塀に入っている模型陶器が置かれている。キャプションに中国でこの豚付きトイレを試した話が入っていて、漸く「ほんと」の話であることを確認した。
漢代の墳墓から出土した青銅の馬には秦始皇帝の兵馬俑の馬に比べてなんと逞しく雄々しいことかとキャプションは唱う。西域の天馬の輸入が史書に見えることを頭に置いた解説である。兵馬俑の馬が並べてあれば我々も納得がゆくのだが、青銅馬だけでは何ともわからん。近くそごう美術館に兵馬俑がやってくるそうだからじっくり比較しよう。将が乗るのは雄馬で兵は去勢馬に乗るとあった。去勢馬はおとなしく雄馬について走るのを利用するのである。なるほど。
多種類にわたる兵器の数々には別に驚くことはなかったが、命中率が高いと思われる半弓「弩(ど、クロスバウ)」には注目した。日本でも最近実物が発掘されて古代に既に知られていたことが証明されたばかりである。中国での「弩」は匈奴に対抗するための有力兵器だが、日本では何故か姿を消した。弓道に使っている大弓が日本では一般化したのである。その理由は判らなかった。ひょっとすると弓材質の永久歪みの問題かも知れない。弩には堅い木材が使われているからである。
表情が日本人と似ているようでちょっと違う着衣俑。俑は埋葬時に入れる土人形のことである。金縷(きんる)玉衣にお目に掛かるのは二度目のような気がするが、軟玉矩形板を金糸で編んですっぽり死体を包み込む。死体を腐らせないためとは解説で初めて知った。もちろん迷信である。豪華だけれども何となくグロテスクで馴染まない。墓は岩山をくり抜いた地下宮殿で生活必要品を一式取り揃えて副葬されている。墓の主は前漢皇帝の弟で中山靖王の称号を持つ。玉衣はその夫人の着衣である。エジプトのピラミッド、ミイラとはまた別の感覚で眺めた。
それから3世紀は経ってやっと卑弥呼が顔を出す。宋版後漢書東夷伝(国宝)のそのページを初めて見た。日本の当時の集落模型は吉野ヶ里の遺跡を参照したようだった。もう記憶は薄いが、吉野ヶ里は九州時代に訪れている。まだ外来文明が入らない独立を保っていた頃のアフリカ奥地の様な雰囲気であったろう。酋長をトップとする身分制は始まったばかりなのであろう、環濠集落の中でVIPは更にもう一重の守りを追加している。二重の木杭による柵と内側に掘った濠によって守られている。戦の場合には最外周に何重もの逆茂木を並べて侵入を防ぐ。愛知県朝日遺跡を土台にした戦の模型は面白かった。だが、この弥生時代はまだ遣唐使よりはるか以前で「漢」文化との本格的な接触はない。「漢王朝」企画展には不要な部分と思った。文化の花が開いた土地とそれ以前の土地の差を示すつもりならわからんでもないが。

('99/06/30)