安楽死


NHK地球法廷からいろいろとE-mailを貰う。今の主題は「生命」であるから誰でも一言はあるはずで、結構討論は弾んでいる。副題の一つは脳死者の臓器供与であった。私が入れた意見は以下の通り。

昨夜NHKスペシャルで京大の生肝移植が定着しつつあるのを見ました。確かに肉親の固い絆のもとに行われる生肝移植は不自然ではない。
しかし、不特定多数を対象のドナーカードには署名する気にならない。文字通り命を代償に助ける人物は、よほど身近で信じるに足ると肌で感じている相手でなければならぬ。私は、死に際し、贈る相手を選別することが人間としての最後の義務であると思う。

この文には返事があって、NHKホームページに載せたいと云うことだった。次の副題は安楽死の問題である。私は次のように書いてみた。

明治生まれの母は痛いとも苦しいとも云わずにあの世に去った。然し喘ぎ喘ぎの中で「早く迎えが来てほしい」と書いて示されたときは、胸が詰まり気が動転する思いだった。あのころは無駄な延命治療は止めてほしいと申し出るのが関の山だった。それすら医療の領域に患者家族が立ち入るという意味で結構「おそれ多い」ケースだったように記憶している。
NHKの報道に安楽死を実質認めるオランダの医療の話が何度かあったように記憶する。人の尊厳が最も崇高に発揮される瞬間は死を覚悟し選択するときだと思う。野放図に安楽死を認めるのではなく、死に至る病に限定し、まずは本人、次ぎに患者家族、それから医師を含む認定機関によって合意の上で安楽死を選ぶ道を開くことは、患者救済に最上の福音である場合がある。京大の生肝移植に関するNHKスペシャルで合意の手続きがだんだんと世間に認知されつつあることを知った。その延長線上に安楽死合意も見えるのではないか。
一般には親が先である。親が子に見せる死に様は親が子に見せてやれる最後の慈しみである。七転八倒する姿など見せたくない。(子供たちは)死への恐怖は本能として持っているのだから(それをつのらせる死であってはならぬ)、なるだけそっと穏やかな顔を見せつつこの世を去りたいものである。

母の死や死の意味については、一度はかってこのホームページでも触れたように思う。いざとなって私がどんな死に様になるか想像もできないが、死に対する理想は、構築し始めておかしくない年齢に達したことは事実である。

('99/05/25)