顔の表現


続けさまに美術展を見た。無縁の私が美術に目を向けるようになったのは、一つは県立美術館のお陰である。そこが我が家から歩いて行ける位置にある。特別展でない限り無料で、下らぬ質問にも丁寧に答えてくれる。答えがあるというのは大切である。始めはぼつぼつだったが、今では半定期的に足を運ぶようになった。次々の箱もので負債を増やす地方政治には反対だが、心を豊かにする方向の投資には賛成である。
青木コレクション名品展、これは千葉市美術館、滋賀県立近代美術館コレクション展、これは千葉そごう美術館、ルノワール展、これは川村記念美術館で開かれている。その間にNHKスペシアルで「ダビンチ最後の晩餐復元作業」を見た。青木コレクションは歌川広重の肉筆画で有名で、地方の篤志家青木藤作氏の収集に依る。1世紀前頃から収集を始めている。凡人が価値に気付く遙か以前である。目の高い人が野にはいるものである。江戸の華−肉筆浮世絵の世界−と題する千葉市美術館所蔵作品展と同時に見ることが出来た。滋賀県のコレクションで今回展示されたのは近代日本画の精華50選で、大家の秀作が並んだ。後は説明の要はない洋画である。川村美術館の常設展は抽象画であった。
千葉市美術館にて。肉筆ではこうも生き生きと画家の感覚がみずみずしく伝わるものかと感心した。今までに見た江戸時代の絵は殆どが版画だったから、江戸期の画家を見直す思いだった。まだ中学生の頃絵の先生に、法隆寺の壁画を大勢の画家が何年も掛けて模写するのは何故だと聞いたことがある。精密なカラー写真で良いじゃないかというのが私の疑問だった。写真では本当の色が現れないと云うお答えだったように記憶する。版画と肉筆ではその何倍もの開きがあるから、素人でも素直に差が判る。版画の極上品は考えられぬほどの多色刷りだったそうだが、肉筆画の筆一本の墨線の滑らかさ、色加減には到底及ぶものではない。
千葉そごう美術館にて。現代日本画は遠目では洋画と判別しにくい絵に成りつつある。屏風絵が少なくなり、掛け軸が少なくなり、襖絵も少なくなり、天井絵など全く希である。花鳥風月よりもむしろ浮世絵の材題であった美人風俗風景画の流れが主流になり、やがて洋画と変わらぬ画題の時代になった。画面一杯に絵の具が広がり、昔の、焦点だけが画かれる技法は影を潜めた。コレクション最後の3点は苦闘改革の今日の結論である。作者は京都美大、日吉ヶ丘高と私にとって懐かしい経歴の主だった。
風景画であっても人物の見えない絵は何とも寂しい。点と線ぐらいでも人らしき姿が画かれていると見る方は随分と安堵感を覚える。いつぞや外国人画家の即売展示会に立ち寄ったときにギャラリーの人に問われてそう答えた。だから申し訳ないが、私は東山魁夷の風景画はあまり評価していない。しかし、いくら人物と言っても肖像画は鼻につく。肖像画は特定の関係者が礼拝の対象にすればいいのであって、一般大衆に見せて感心させる絵ではない。こう書いてみると私の好みが見えてくる。美人画歴史画風俗画。だがどうしてこうも日本画の中の人物は画一的で個性に乏しいのだろう。姿態とか着物の美しさは見事に表現されているのに顔に個性がない。
小倉遊亀「姉妹」、梶原緋佐子「秋立つ」。この2点は別格であった。前者は小学生、後者は日本髪の芸者風だった。顔立ちに個性がある。どちらも'70年代の作である。社会の中に個性が尊重されだした時代と一致するように思う。それまでの絵の美人は、その時代の究極の美しさを追求し一般化した結果だったのだろうか。そんなものは無いのである。私は近代日本画壇を彩った巨匠たちの絵に個性あふるる人物が登場する画風も新時代を切り開く手段であると思う。
ルノワールはたくさんの人物像を残した。何とか侯爵何とか夫人の大きな肖像画がある。家族や友人の登場する絵も多い。今なら記念写真と云うところか。大きな尻の裸婦像はどうも頂けなかった。人物で風俗とか生活を残そうとしたのではないようだった。TVの最後の晩餐は圧倒的迫力を持っていた。ルノワール展はもっと時間を置いて見るべきだったと思わせるほどであった。最後の晩餐はダビンチまでに何度も取り上げられた宗教画題であるとは知らなかったが、それにしても大壁面の重厚な構想力には唸らされる。宗教的背景の知識が無くても絵画としては絶品であることを誰もが承服することだろう。さて人物の顔。ルノワールでも思ったのであるが、彫りが深くて個性を画きやすいヨーロッパ人種だが、ことに男性は描きやすいようだ。日本画でも明らかに男を対象にした方が個性を出しやすい結果になっている。それにしてもである。なんとダビンチの画くキリストとその弟子たちの個性溢れる面立ちよ。
今は低迷気味の日本画に何か新しい方向は無いものかと思いつつ絵を眺めている。

('99/05/15)