ユトリロ展


モーリス・ユトリロ展を見る。旅の絵もある。だがほとんどは終生離れなかったパリの街角の風景画である。白っぽい幾何学的な建物の並ぶ平凡な風景を飽きずに画いている。同じ題名の絵が数多い。「ラパン・アジル」とは画家の溜まり場になっていたカフェの名である。現在もあるという。「雪のラパン・アジル」と季節が変わっているものもあるが、執拗に画く位置は同じである。解説を読むと原画が絵葉書だそうで、なるほど見る角度が変わらぬはずだ。「ムーラン・ド・ギャレット」は風車を中心にした絵で、展示の何枚かのそれぞれの画く位置は多少は移動しているものの、風車のある風景への愛着が伺える。ユトリロは著名になってから、買い手の希望に応えて、自身の「ラパン・アジル」と「ムーラン・ド・ギャレット」を多数模写して売ったそうである。同じような絵がたくさんあるはずだ。
私生児で少年期は母子二人の暮らしだったが、母親が自分中心に奔放に生きたために、いつも寂しい境遇にあった。酒乱凶暴で精神病棟にも世話になったそうである。人との距離をいつも気にしながら生きたのだろう。彼の絵に人が画かれる事があっても、それは風景を飾るために添えられた重みの低い脇役である。でも小さくはめ込まれたこれらの人物像は、私には、異国の半世紀以上以前の風俗を伝える興味ある点景である。男は山高帽に黒ずくめの洋服、女は裾の長い地味なぶわぶわのスカートに縁のある大きい帽子をつけいている。顔かたちなど定かではない。しかし、今時の地上何百メートルも真っ直ぐなビルとは違い、石造り煉瓦造りの建物は木造ほどではないにせよまだ人間の息吹を感じさせるから、周囲と程良く調和している。
千葉県立美術館に浅井忠の「藁屋根」と題する油絵がある。今丁度常設収蔵作品展中で展示されている。1世紀以上昔の農村風景である。ユトリロより古い。中心に大きくはないが人物が配置されている。木造の農家から籠を背負って出てきた母と熊手を担いだ娘だったように記憶する。娘が母の顔を見ている。ある時は昔懐かしい農家の佇まいに惹かれ、ある時は母子の睦まじさに惹かれ、均衡のとれた名画が身近な美術館にあることを感謝している。この絵は人物の大きさがこれ以上でもこれ以下でも駄目だろうと良く思う。ユトリロの絵では人物の比重がずっと浅井忠より低いのは、基本的には絵描きの人間性の差だろうが、一つは建物に感じる暖かさの差の問題なのかも知れない。
私は寡聞にしてユトリロという画家を今回の展覧会で始めて知った。石の建物中心の絵は寂しく寄りつきがたい。教会を描いた絵が何枚かあるが、教会がこんなに気味悪い美しさのない建物だとは思ったことが無かった。そんな印象を与える作風がレジョン・ドヌール勲章を授与された理由なのだろうか。ともかくそれでも壮年期の絵には引きつけるものがあるが、晩年の絵には輝きがない。風景特に洋風建物のように直線の多い絵では、素人と玄人の差がなかなか区別できないものだが、そう思ってもやっぱり彼の晩年の作品は素人臭い。

('99/02/06)