
- 奈良に水木要太郎という収集家がいた。明治以前の生まれで死んだのは私が生まれた頃と前後する。松山出身の東京高等師範を出た教育者で、収集家に良くある素封家ではない。いったん奉職した三重県の小学校を辞職して奈良に来ているから、若い頃から思うところがあったのであろう。子孫の代まで彼の収集事業が継続されている点もすばらしい。正統な学識を持つのは大切なことである。
- 国立歴史民族博物館で関連の記念講演会が開かれる日を選んでこの企画展を見学に行く。古瓦や建築材のような物品もあるが、収集品の価値はたぶん筆写拓本を含めた文書類と言えるのだろう。明治の廃仏毀釈時代に大量の雑文書が寺院から放出され逸散した。奈良大和に出回った反古類を消える前に収集したのが彼である。奈良の廃仏運動は大変な勢いだったらしい。いつだったか、興福寺の仏像の脇に雑多に置かれた仏の欠片は、そのあおりで消えた大寺に吹き荒れた運動の証拠と聞いたことがある。玉石混淆ではあろうが、奈良の都のいにしえに繋がるかもしれぬ反古(資料そのものは比較的新しいようだが)はその土地だけでしか出てこないのだろうから、よくぞ収集したものである。
- 安田靫彦の掛け軸「聖徳太子像」があった。何故あるかというと水木要太郎は文人学者芸術家に広く大和の生き字引として知られた存在で、この高名な歴史日本画家は彼を必要とし訪れているからである。大福帳とはちょっと時代がかった呼び名であるが、彼は現代に言うメモ魔であったらしく、自分の行動収集活動はもちろん、訪ねてくる著名人たちの一筆までそこに残している。内藤湖南、梅原末治なんて私の年代の記憶に繋がる学者のサインもあって、単なる収集家に止まらない精神的上流階級を作っていたことを伺わせる。奈良女子高等師範の先生だから収入は知れているだろうが、羨ましい生き方が出来たものである。
- 講演のあと博物館の民俗展示室を回る。もう10年近く見なかった部屋である。内容はほとんど以前と同一であった。大阪の法善寺横町だったかどうか演歌に出てきそうな町中の信仰あつい不動さんとか恵比寿さんあたりの風景、一転して農村の豊作の神々への信仰を彩る行事、山中の出作り風景、またぎの世界、海にまつわる信仰やら迷信やら、どれも失いつつある風景であった。近江の平野部の一部落全体の模型は、そこだけで一応の完結した生活を営めた時代の名残を目に見える形で示す。新幹線で北滋賀あたりを走るときに窓から眺められる風景に何とよく似ていることか。昔々、安土城趾に登ったときに通ったあちこちの風景も全くそんなであった。
- 明治以降の歴史展示は時間の関係で駆け足で見学した。関東に根を下ろしてから何度も関東大震災の史実を伝える展示にお目にかかった。横綱町公園の慰霊堂の絵画が印象鮮明で、あと江戸東京博物館の展示を記憶している。ここにもそれがある。阪神大地震ではどっと不特定多数のボランティアがやってきたが、地縁血縁の当時は、たちまち自衛組織が出来て我が身を守ろうとした。過剰防衛もあったが、情報不足の非常時の人間行動パターンとしてやむを得ないと判断される面もある。過剰防衛だけを、平和で安全を保障されている社会から批判するのは当てはまらない。全体が見える展示とは難しいものであるが、ここの展示はまずはバランスがとれているように思う。
('98/11/29)