二十世紀をどう見るか


これは新しく文芸春秋社が新書版を出す方針になって、最初に出版した10冊のうちの1冊の題名で、著者は野田宣雄先生である。今日本では本が売れないと言う。特に若者が読まないと言う。大学生の勉強時間が学校の授業を入れても週26時間あまりという。晴耕雨読の私でもそれぐらいはやっているだろうに。読まない民族に明日はない。そんなご時世の決心である。私は文春の新書出版を好ましく感じた。そして買ったのがこの1冊である。他の9冊は趣味的というか興味本位というかまあ満ち足りた人の読む本だと思うが、この本だけは鋭く未来を睨んだ警世の、格違いの内容である。
私は巻末に挙がっている参考文献を1冊も読んだことがない。類書も眺めたことがない。せいぜい新聞雑誌の断片的な記事を時折読んで将来を不安に思っている程度である。だから私には書評を書くほどの力は無い。よって以下は長年生きたものとしての読後感である。何と言っても関心は日本の将来にある。だから以下それを話題の中心にする。
歴史は繰り返すとよく言われる。二十世紀初頭は帝国の時代であった。それがいったんは解体したが、また再び違った格好で、頭をもたげようとしている。最後の章は中華帝国と日本という表題になっている。アジアでは中国というまとまりが覇権国になり、日本は周辺の夷に成り下がろうという。これが杞憂であればよいのだがと言うのが結論である。
今現在の民族の趨勢は帝国化どころかその反対を行く。多民族国家の国内紛糾を見ると人々の心のよりどころの最大が民族単位であることはよく分かる。中近東のクルド族、旧ユーゴスラビアのアルバニア族、回教徒、クロアチア人、カナダのフランス語圏の人々、漢人の侵攻以来なりを潜めてはいるが中国のチベット族ほか、大ブリテン内のアイルランド人やスコットランド人、イタリアの南北対立等はいずれも帰属意識の小単位化である。
国家意識のもう一方の危機は経済のグローバリゼーションからやってきた。科学技術の進歩は、資本主義の国際化自由化指向を加速し、早急なマネーゲームのグローバリゼーションをもたらした。今までの国民国家の枠組が少なくともこと金融に関する限り曖昧になり、追々と民族の意識にも影響し出す。過去の中華帝国は、20世紀初頭のその他の帝国と同じく、領土内の諸民族の大まかな統治と徴税をするシステムで、決して今日の国民個人にまで及ぶ統治ではなかった。国民国家の境界線がこのようにボーダーレスになって行くと、なし崩しに中心民族たる中国の辺境民に日本が位置付けされるようになる。帝国の再来には、かって歴史的に存在した事実とその求心力になる中心民族の存在が必要である。中欧ではそれがドイツ民族である。なし崩しは日本では、沖縄が国際自由貿易都市になるとか、地方分権により半独立化した九州、四国、中国、関西など州制に近い政治システムを指向するところから始まる。
強烈に民族国家を意識してきた世代が老齢化し、国際化自由化を第一と学んだ世代が台頭してくる。領土、民族、社会が完全に同一で、今まではまことに効率の良い発達を遂げることの出来た我が国ではあるが、この国際化という意味では、全くの未経験者である。かっての中国人はユダヤ人以上にユダヤ的であったと書かれている。国家の庇護など全く期待せずに自立的に展開する訓練の出来た中国人が、これからのアジアを牛耳ることになると言う。彼らの目には国境はなく、日本を含め周辺は中国の辺境という意識に含まれた領域という。辺境とは元来は中国であるが中国政府の手が未だ行き届かないと言う地帯である。
華僑が経済を支配する東南アジアを意識した予想だと思う。しかし今回のアジア危機に対する反省から短期金融資本の投機的流動には政治の枠が填められるのは時間の問題である。マルクスの言う景気の循環がケインズ流の施策で回避できるようになった過去の経緯を考えると、今回噴出した新しい資本主義の欠陥もいずれは癒されて、安定成長の道を見つけるに違いない。順調に発展すれば中国は世界一のGNP国にいずれはなるだろうが、そのとき我々が、辺境民に落伍しているとは思いたくない。だが、野田先生のお説は傾聴に値すると思った。

('98/11/18)