
- 農薬の研究所を訪ねたことがある。色んな害虫が飼われていた。おなじみであるためか、一番印象に残ったのがゴキブリであった。彼らの運命は悲惨である。我が身に農薬の薬効が試されるときに地獄を見ねばならぬのである。ゴキブリに痛いとか苦しいとか云う感覚があるのかどうか知らない。だが我が家で駆除剤をブーと吹きつけたときのあの断末魔の姿を見ると、にっくき相手とは云え命を取ることに心が疼く。
- いつか外国人に聞かれたことがある。おまえの宗教は何じゃと。お寺には行くが殆ど博物館に出掛ける感覚だし、キリスト系の教会は観光でバチカン他2-3を訪れたのみである。家は真言宗のお寺の檀家だったが、法事以外でそこの和尚の説教を聞いたことはない。親が生きていた時代には、それでもなにやかやと坊主の出入りがあって、門前の小僧的によく出てくるお経の一節ぐらいは意味不詳のまま宙に覚えてはいた。だから私は、無神教徒だが、仏教徒の香りを着けていると云った。香りとは具体的には仏に捧げるお香のことで、もうちょっと広い意味には、仏教文化の中にどっぷり浸かって大きくなった以上、仏典は読まなくても仏の考え方を知らず知らずの内に身につけているという意味である。あれから30年以上経ち、初めて般若心経を読んだ。四国88ヶ所巡礼が契機であった。
- 幼い頃より殺生を禁じられてきた。生きるため以外は殺生をしてはならぬ。だからスポーツで殺生をするフィシングとかハンティングは嫌いである。しかしこのスポーツを生んだ国は食うための捕鯨は殺生だという。同じ哺乳類でも牛に馬豚は殺しても殺生ではない。訳のわからん論理である。占領軍がお稲荷さんで名物の焼き鳥を見て日本人は残虐だと言った。小鳥は可憐で愛すべき小動物で食うなど以ての外という。稲の害鳥でも残虐行為に分類されていた。これも訳のわからん論理であった。文化的傲慢の一例である。
- 絶対的な殺生禁止を正面から云うのは仏教だけのようである。聖職者たちがつまりプロの信者が過去に取った、異教徒に対する行動がそれを良く物語っている。20世紀に入っての大量殺戮紛争の原因は民族宗教主義思想文化などいろいろだろうが、宗教が大きな割合を占めているのは事実である。イスラム教もユダヤ教もキリスト教も同根なのに、カトリックとロシア正教セルビア正教はもっと血の濃い同根なのにである。収まる気配も見せない旧ユーゴ、イスラエルの現状を見ると絶対的殺生禁止が文化に入っていないのを悲しく思う。
- 明治に入ってからも我が国が廃仏毀釈に走らず、釈尊の教えを、今のタイ国民のように守り育てていたら、日本の歴史は違った展開をしただろう。地球は閉空間である。それが第一義的に考えねばならぬ行動規範であると認識するなら、仏教に今まで以上の輝きを求めるのは自然の成り行きのように思う。
('98/10/21)