
- 私は53年前の8月15日を集団疎開先の京都府の北端に近いお寺で迎えた。国民学校6年生であった。だんだんその頃の記憶が風化して行くので、もう書いた部分もあるが、まとめて書き留めておく気持ちになった。
- 天皇の敗戦を告げるラジオ放送はお寺で聞かされたと思う。だが、雑音と難しい言葉の羅列でさっぱり意味が取れなかったようだ。真意は周囲の大人からすぐに伝わった。死ななくて済むと思った。幼年学校も少年飛行兵も特攻隊もすうっと遠のいたのが判った。爆弾三銃士に志願しなくても良くなった、玉砕もなくなった、本土決戦も行われないのだろう。舞鶴軍港爆撃帰りの敵艦載機のハンティングに狙われることもなくなるだろう。命を失うとはどういう意味かと真剣に何度も子供なりに考えた時代だった。
- それから集団疎開児童の引き揚げが始まる。村の大人たちが送別会を開いてくれたのを思い出す。何十年かしたらきっと一度帰っておいでと云った村人がいた。私たちは戦後ではなくなった中年になってから同窓会を一度だけその村で開くことになる。夏休みに入っていたからだろう、国民学校地元生徒たちとのお別れ会はなかった。クラス単位の会もなかった。私たちは家に帰れるというので有頂天になっていたから、村の学友との別れを深くは気にとめていなかったと思う。
- 敗戦までに集団脱走と言って、お寺の疎開児童が集団を作って我が家を目指して脱走する事件が時折起こっていた。3(4?)年生から6年生が寺で合宿しているのだが、いかに厳しく軍国思想で陛下のために死ぬ赤子(せきし)となれと洗脳されていても、ことに低学年生は親が恋しいのは当たり前である。私の寺からは脱走は起こらなかったが、小さい子が夜に忍び泣くのを時折耳にしていた。同じ学校から来て別の寺に疎開した連中はやってのけた。同年輩の親類の子もやったそうだから、記事にはされなかったが、集団脱走が頻発していたことは間違いない。
- ひもじい時代だったから食い物の記憶は割と残っている。漁村でもあったから、魚が食えたのは良かった。一度浜に小形の鯨が漂着したときはその珍味にありつけた。村の人たちは食料の分配について鷹揚だった。京都市内では昼弁当を持ってこれない生徒がたくさんいたのに疎開先ではその覚えがない。それでも飢えているから、手に入るものは何でも食った。藤の実にはえらい目にあった。寺の大きな藤の木に実が生ったので、村人に教えられてそれを炒って食ったのである。少しで止めれば良かったのに大量に食ったものだから全員腹を下し大騒ぎであった。川の土手に食糧増産のために学校が大豆を植えたときは村人は嫌がった。堤防決壊に繋がるからと云った。
- 椿の花には蜜があった。朝露が溶かし出した密を蜂やアブの昆虫より早く行って吸ってしまうのである。養蚕の盛んな地方だった。桑の実が果物代わりになった時期があった。蜂や蚕のさなぎはうまいからと村の子は云うのだが、ひもじくてもこれには手が出なかった。
- 親の訪問日があって交替で親がやってくると、必ず何かのおこぼれが貰えた。土産は全員に公平分配と云うことになっていたらしい。しかし我が子にはこっそりと特別の土産を母親は必ずと言って良いほど用意し手渡していた。私には期待に反し何もなかった。父が来たのである。後で聞くと母はその日のためにずいぶん用意したらしいが、父は私個人には何も渡さなかったのである。
- 村の生徒たちの村意識は相当なものだった。よそ者という意識で見られていたと思う。我々は「とかいのけら」と総称された。都会の子供らという意味である。学校の成績は少なくとも私のクラスでは、個人疎開できた連中も含めてその「とかいのけら」が上の方を独占していた。先生のおぼえは良かった。クラスの中でいじめられる事はなかったが、学校には高等部があり、その連中にはそこそこにやられた。でも特別我々「とかいのけら」だけがつつかれていたようではなかった。軍国時代の上下は厳しかったのである。半年弱の集団疎開だったが、最後まで村に友達は出来なかった。無理に友を作らなくても疎開児童だけで一つのグループが出来ているから、それほど必要としなかったからかも知れない。お家を訪ねた記憶もない。一度、私の担任でない若い女先生が、下宿に呼んで部屋まで上げてくれたのが唯一の訪問記憶である。
- 疎開の女児にはいろいろ教わった。お遊戯である。羅漢さん、おじゃみ、綾取り、縄跳び。歌もあった。未だに意味が分からぬ歌に、「ドーレドンガラガッチャホーイツラッパノツーイツイ・・・・」というのがある。確か5年生ぐらいから男女を別クラスにするほど区別の激しい時代だったから、そのころ女児と遊んだ経験は貴重といえるものだったろう。後の私の人生に決してマイナスには作用していないように思う。
- 敗戦の日、軍港を目指して軍艦2隻が沖を通るのが見えた。爆撃避難で入り江に入っていた船はそのままだった。あのころ陸軍の小部隊が学校の講堂に寝泊まりしていたが、演習のためだったのか、兵舎を焼失したためだったか。
('98/08/22)