鹿の王(下)
- 上橋菜穂子:「鹿の王(下) 還って行く者」、角川書店(2014)を読む。550p全6章(第7~第12章)。「鹿の王」は、上巻を読んで、古代~中世あたりの架空のアジア系大国辺境地を中心に展開する、SF的ファンタジー小説であることが判った。馬乳酒を酌み交わすシーンがある。この酒は今はモンゴル産が有名だが、元来は中央アジアに広く産する酒だ。冬には雪と凍てつく大地とある。だんだん場所が分かり出す。「鹿の王(上)」に一応の私なりの理解を載せたが、はて正しいかどうか、下巻が決めると思うとなんだか楽しい。
- 新たにもう一つの辺境の少数民族:火馬の民とそれに隷属している沼地の民が、事態を理解困難にする歴史要因として登場してくる。火馬の民はかってはアカファ王国の南の平原にあって駿馬:火馬の牧畜業を生業にしていた。アカファ王国を征服した東乎瑠帝国は移住民を送り込み、羊の牧畜を推進した。ついに双方にあつれきが生じ、移住民や羊を殺した氏族民全員が追放処分を受けた。旧王国は、かっての版図の他の諸民族勢力圏に少数ずつ、この追放放浪民を引き受けさせた。
- 火馬の民はキンマの神を厚く信仰している。その神の啓示を絶対視している。今の啓示はかの黒狼熱?を媒介する噛み犬(以下毒犬と書く)の出現だ。彼ら火馬の民にはさしたる害のない毒犬は、東乎瑠の民や持ち込んだ羊には激烈に働き死をもたらす。神の使者たる毒犬を先頭に、祖先伝来の土地を取り戻そう!。ところが毒犬を操れるのはもう老齢で人としては力の落ちた「犬の王」の心霊力~魂だけ。犬の王はヴァンにその力があることを見抜いている。だから彼も族長以下もヴァンを引き込むのに懸命だ。彼が愛する幼い拾い子・ユナはそのための人質である。
- 火馬の民の族長が信じる毒犬発生機構が書いてある。私は上巻のはじめの方で、黒狼熱?はウィルス起源と思ったと書いた。でも族長は毒麦説だ。Copilotによると麦には赤カビ病が発生する場合があるが、その麦は出荷までの工程で選別除去するのが難しく、市井にカビ毒被害をもたらすことがあるという。だが致死的な猛毒のカビ毒は現実にはない。牛は被害を受けない、だったらヴァンら北方民が飼育する飛鹿もトナカイも、同じ反芻動物ゆえ、健康でおれるはず。これはこの本に書いてある事実と合っている。いろいろ考えねばならぬ小説だ。
- 隣の東乎瑠に敵対する大国ムコニアは辺境侵攻の意図を隠さない。狙いは冬の東乎瑠の砦。ムコニア側も辺境の民を先兵にしている。彼らは既に火薬を使った石火矢を実戦に用いている。とするとこの物語は中世の話か。逆に東乎瑠軍はこれも辺境民兵を使って挟み撃ちにしたい。火馬の民には決起のチャンス。東乎瑠の砦に毒犬団と侵入し、殲滅して旗挙げの狼煙にするのだ。彼らを受け入れてくれた山あいの氏族も、後押ししてくれている。犬の王の心霊は、ヴァンとともに、毒犬を引きつれてムコニア軍を蹴散らし砦に迫る。だがヴァンはそれ以上は犬の王には従わなかった。ムコニア軍に隠れた旧王国の手練れが、火馬の民の暴走を止めにかかる。火馬の民の急進派は、後日、密かに旧王国々王戦士団の手で処分されることになる。旧国王とその民は、この処置で、かろうじて征服者による糾弾から逃れることができた。ヴァンは幼いユナの探索にかかる。彼女は実は沼地の民に預けられている。ホッサル一行は調査紀行で彼女を知る。
- ホッサルはオタワル民の貴種。オタワル民は今は聖域内に逼塞しているが、古王国以前の王国の人たちであった。彼らの科学には既に顕微鏡があった。細菌に病素になるものがあると判っていた。ある種の菌類から抗細菌素が見出されていた。肺結核に対する抗生物質ストレプトマイシンは菌類(放線菌)から抽出されたが、そっくりの話しだ。だが顕微鏡では見えぬ極小微生物~ウィルスには抗細菌素は効かぬ(確かに、我らの医薬学では、たいていの抗生物質はウィルスには効かないと判っている)。ペニシリンの青カビからの発見は1928年。彼らは、中世どころか一次大戦前後のころの医薬学に通じていたことになる。
- そして岩塩鉱の黒狼熱?遺体からウィルスが確認された。ウィルスは細菌濾過器を通過するとある、電子顕微鏡が発明される前までのウィルス認識法は、素焼きの筒を通過できるかどうかだった。他のウィルスには地衣類が有効であると既に判っていた(現実には地衣類から抗生物質を生産する話は聞かない)。ホッサル一行の調査紀行は、有効新種地衣類の探索採取であった。
- ホッサル一行もユナと共に岩牢に監禁される。ホッサルを釣り餌に旧王国の大黒柱トゥーリムまで掴まる。火馬の民の急進派で、東乎瑠砦の攻略に失敗した石火ノ隊が、蜂起を抑えにかかった旧王国に、反抗の意思表示をしたのであった。ヴァンが岩牢に入り込み、救出の段取りにかかる。ユナの新種選別に対する特異能力が、おいおいとはっきりし出す。私は、新型コロナが感染者に、以前と異なる五感~嗅覚異常とか味覚異変とか~を置いていったことを思い出す。ユナとその氏族は黒狼熱?と遠くない位置で生きてきた。また、ウィルスが宿主の生死で選別されて、結果としては宿主と共生できる方に、つまり弱毒性に進化する場合が多いことが、一般論的に語られてある。現代の感染病の専門家でも同じような言葉を吐くだろう。ホッサルらは、時間経過や感染地域の差などから、毒性が変化するさまを読み取っていた。
- ホッサルとヴァンが黒狼熱(2/3ほど読み進んだあたりでは、もう黒狼熱と共通認識されている)について語り合う。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)で有名になった忍者ウィルス的挙動にも触れている。最も興味深いヴァン、ユナ、犬の王にだけ見られる心霊現象~魂が毒犬の行動を統御する~には、旧王国が征服される前獲得の免疫が、新たな毒犬~キンマの犬~には不完全で、脳内侵入を許し、五感変異を起こし、さらにこの3人にはもっと深刻な脳機能変化を与えたためとしている。昔なら一笑に付したアイデアだが、上段の通りの現代人の間で市民権を得た認識~新型コロナの残した感覚異変~がその可能性を示唆する。この小説は新型コロナ蔓延以前に書かれた本である。あるいは似たような知見が過去にあったのかも知れないが(HIS後遺症として感覚異常が報告されたことはあった。しかし市民が共通認識として知ったのは新型コロナ以後だと思う(「4月の概要 (2021)」、「コロナ後遺症」('23)。)、著者の知性の鋭さには感じ入った。
- かろうじて生き延びた火馬の民の族長は、生き残りの僅かな手下と共にキンマの神の呪いを果たす最後の闘争に入る。旧王国視察団歓迎祭で標的(皇帝代理~玉眼)を爆殺しよう。使うのは焙烙火彈。「もののけ姫」で森を守る猪軍に天長側の法師団が投げ落とす爆弾そっくりの品物なんだろう。会場を騎馬で襲い投げつける。襲撃はヴァンらの働きで阻止され彼らは全滅した。だがキンマの犬がいない。
- ヴァンの鼻はオタワル深学院の信頼熱い助手シカンが火馬の民で、族長と繋がっており、事件後姿を消したことを確認する。族長の派手な行動は目くらましで、本筋の復讐は、キンマの犬を神の使いとして、征服帝国とその傀儡に成り下がった旧王国に黒狼熱を流行させて、呪いの深さを思い知らすことだと悟る。助手だったから、シカンは深学院を通じて、この黒狼熱の大本の宿主が黒ダニで、次々と動物感染で広がって行く性質のものと理解しているようだ。
- ヴァンは魂を犬と一体化できる特異能力を活用して、自らは犬と化しても彼らを人の世界から遠くへ切り離そうと決心する。犬に裏返っている日時が長くなると、元の人には戻れなくなるのを覚悟している。鹿の群れが狼群に襲われたとき、鹿の群れの中の王「鹿の王」は一身を犠牲にして一族を救う天性を備えているのだそうだ。
- 実際の復讐は、火馬の民の失地回復のための行動を阻止してきた忍者集団に対するものだった。上巻にあるようにこの忍者集団は、旧王国の情報ネットワークであり、オタワル勢力とも通じながら、危険分子の闇処分武力組織となって、旧王国の帝国に対しての地位保全に働くためのものでもあった。なにか英国植民地時代のインド藩王国のような立場を想像させる。復讐戦で生き残ったキンマの犬を引きつれて、ヴァンは人のいない北東の森へ急ぐ。ヴァンを人として受け入れた人たちがそのあとを追って行く。
- 5年後に外伝的作品『鹿の王 水底の橋』が発表されている。ホッサルらのオタワル医術団が東乎瑠の清心教医術や帝国継承問題と関わり合う物語という。それでは「鹿の王」の上巻+下巻とはほぼ独立の内容になるので、このHPでは取り上げない。
('25/4/1)