京都 ものがたりの道
- 彬子女王:「京都 ものがたりの道」、毎日新聞出版(2024)を読む。新装版で、元本の出版は'16年だったという。200pほどの本に27の通りが表題になったエッセイが並ぶ。最後に「新装版おわりに」があり、コロナ禍で観光都市ではなくなって、京都が昔を取り戻したとある。女王の分類では私は昔の京都人に入るはず。今の観光京都は'00年頃からだそうで、私は殆ど経験していない。皇族で常時京都にお住まいなのは、彬子さまだけと思う。どんな感覚で京都を受け止めておられるのか関心が沸いた。
- 「はじめに」に釜座通に今も釜師が居ると紹介してある。本書に流れる女王の京都愛のヒントのようだ。京都といっても「新」京都(洛外)育ちの私はそんな通りは知らない。烏丸通、丸太町通、堀川通、御池通が囲む四角形の、ちょうど真ん中あたりだ。お土居の中をさす「旧」京都(洛中)の真ん中だ。本書には「新」「旧」の区別(「京都ぎらい」('16)、「京都人の密かな愉しみ」('17))は出てこないようだ。先日、白河市の街歩きをした(「卒寿第3回大人の休日パス旅行」('24))。この町には手代町、袋町、馬町、鍛治町などと、歴史を伝える地名がそのまま引き継がれていて好感が持てた。地名は歴史的景観の一部である(「寒川神社大祭」('98))。
- 意外と多い西洋建築の町と言う印象。例示の京都府庁・庁舎には私は入ったことがない、だからその中庭の桜など見たことがないのは残念。明治期の道府県庁舎には、その頃の市民の生活実勢を考えると、分不相応に立派な建造物に作られているものが多いようだ。私の見た範囲には北海道、山形(「山形、郡山、会津若松、越後湯沢T」('09))、新潟(「新潟観光」('09))、三重(明治村)の旧庁舎がある。藩政が解体したあとの新政府でも、知事さまはお殿様と同格という気分が残っていたのだろう。同志社大学今出川キャンパスの煉瓦造りの建物はシックだ。学園祭だったかに中を覗いたことがあった。東華菜館は、在京中に一度いったかどうかの、貧乏人には高嶺の飯店だったが、明治以来の会館だとは知らなかった。
- 2~3時間歩くのはヘッチャラと書いてある。数年前までは私もそうだったが、今はそんなには歩けない。うらやましい限りだ。もともと好きだったが、私もことに近頃は訪問先々の寺町歩きは旅の定番行動になっている。そのくせ京都の寺町は本能寺から新京極あたりまでしか知らない。紫式部の廬山寺は、荒神橋の近くと覚えている。荒神橋では、私が大学生の頃に、デモ隊と警官隊の衝突で学生が川原に墜落させられた事件があった場所である。
- 学友に暇を見つけては京都を巡り歩くのがいた。九州出身だった。私は家庭が京都だったから、京都などいつでも見れる、それより奈良であり大和だと思っていた。それは間違いだった。就職で一旦京都を出て以来、業務で京都を訪れたのは、大学に派遣社員を訪れたときだけであった。本書には著者の意欲的な京都見物が綴られている。著者は、ある意味私のかの学友と同じ意識をお持ちなのだと思う。京都在住となって6年目の著作だそうだ。近年はTVにインターネットに本にと、京都深掘りの情報が溢れている。さすがに少々飽きだしたが、BS11の「京都浪漫 悠久の物語」はもう134回を迎える。本書が版を重ねるのは、誰も手が届かない女王という地位の女性が伝える感性に、憧れに似た興味を抱くからだろう。一貫して京都さらには日本を愛おしむ姿勢が共感を呼ぶからでもあろう。
- ここでは私にとって身近であった場所のエッセイだけを列挙しておこう。哲学の道は南禅寺を跨ぐ水道橋を通る疎水分流の先に沿った道。私は疎水のずっと下流の川縁に何年かを過ごした。記事を読んでなつかしくなり、その住まい附近の現況をGoogleマップのストリートビューで眺めてみた。建物はすっかり建て変わり、職住混在の下町風景になっていた。水量は減っていたが流水はあった。並流する鴨川へ通じる放水口があって、かって少年が吸い込まれて水死した事件を思い出させたが、放水施設はがっちりした設備に改良されていた。哲学の道あたりは殆ど景観が変わらないが、下町は時代に即応して変化してゆく。新旧併せ飲む運命の京都を疎水縁に見た。
- 下立売通から少し上がったところにも何年か居住した。下があるから中も上もある。立売とは、路上商売のことだとある。この通りはかっては青空市場であったのか。ストリートビューで見たら、驚いた、あの木造の建物が、それも周辺は改築されているのに、ただ1軒だけ古色騒然と残っていた。地蔵盆でお化け屋敷を覗いた記憶がある、その地蔵堂と小さな広場は今も残っていた。女王は京都人の西限は西大路という。やっぱり私は洛外人だった。でも上段記載の疎水縁住居よりは遙かに御所に近かったから、職住混在とはならなかったようだ。疎水縁の家は南限・九条通のなおかなり南だった。
- 西大路と北大路の交わるあたりには、金閣、平野神社、北野神社、竜安寺、立命館大衣笠山キャンパスなどなどが集中している。そこらは小学校、中学校時代の私の行動範囲だった。平野神社の桜はときおり見に出かけた。本書には今は60種を超えるとある。私は関東に来てからの方が京都での期間よりもずっと長くなったが、来て早々に桜について感じたことは、なぜソメイヨシノだけなんだということだった。新宿御苑、青葉の森公園(千葉市)にゆけば数々の種類の花見が楽しめることは後年知った。「それだけじゃないよ」を幼いときに知っておくことは、心の成長に有益だ。何かあるとすぐ一極集中化しようとする効率論的政策は、人口1億超の国家には有害だ、という警戒心を私は感性的に仕込まれている。
- 彬子女王は京産大教授。博士号はオックスフォード大から日本美術の調査・研究の論文により取得された。論文執筆時の苦闘物語がところどころに出ている。そのときの居住地マートン・ストリートと京都の道の雰囲気が似ているという話で、本書が締めくくられている。肯定的に現状を理解しようとされるのは、育ちがけっこうものを言っているのだろう。「京都ぎらい」と言う本もあるのだから。
- その京産大は私が京都を去ったあとにできた大学。地図で調べたらキャンパスは、上賀茂神社をさらに北上した神山南山麓にあった。女王はそこへバス通勤なさっている。バスは河原町通から下鴨本通を走るという。私は中学2年生の頃であったか、昆虫採集ネットを抱えて、賀茂川縁から峠越えし、叡山電鉄鞍馬線側に抜けたことがある。自動車など通らぬ山道だった。神山の南側を通ったか北側を通ったかもう定かではない。Googleストリートビューで見ると現在はどちらも立派な舗装道路になっている。あのころの賀茂川上流一帯は耕作地だったが、今は諸大学の施設、ゴルフ場、住居の中にそれでもビニールハウスが点在する新興地になっている。
- 私には覚えがないが、愛宕山が嵐山の渡月橋から見えるらしい。嵐山は小学校からの行動範囲。学校にプールなどなかった時代だから、夏の水泳によく出かけた。まだ水泳中顔を上げて呼吸ができない幼少の頃、深みの流れに嵌って兄にしがみつき、危うく水死を免れた経験がある。本書の通り愛宕山は火の神様で有名。光秀の連歌でも有名。でも少年には水晶のとれる山だった。戦中の鉄材供出で嵐電の愛宕線および登山ケーブルが撤去されていた。山麓の駅を清滝と言った。嵐山駅から清滝駅を経、山の中腹までトンカチをもってケーブルの階段道を上ると、鉱脈の露頭に出会う。超長い完璧に一本調子のコンクリート階段はさすが少年の足にも応えた。降りたときはしばらくは足が痙攣で笑って、帰れるだろうかと不安になったことを覚えている。
- 堀川通は、本書では触れていないが、戦中に延焼防止対策として民家を強制的に取り壊して大拡張した大通りだ。ここだけではない。御池通・五条通・紫明通・智恵光院通・祇園白川沿いもそうだったとWebに出ている。私にはその取り壊し現場を見た記憶がある。西陣とは漠然と言い習わしてきた地域ではっきりとした区画はない。西陣織の機を織る音、糸を繰る音などが聞こえる地域だった。西陣織会館は織物問屋が並んでいた堀川今出川交差点近くにある。本HPの「Kimono Beauty展」('13)にはそこの着物ショーを見た思い出に触れている。私が訪れた頃の着物ショーは常打ちだった。気になったので、会館のHPを開いたら、ショーの予定はありませんと出ていた。本書には西陣の話は出てこない。ちょっと残念だった。
('24/11/27)